7.罪の告白、喜び迎える父

6.本心に立ち返る、父の家に帰る
8.父からの賜物

コラム 「放蕩息子のたとえから学ぶ救済の計画と信仰による義」  フランク・フォニエ氏の講演より

001

今朝わたしが滞在している赤城から富士山が見えました。大きな祝福です。ルカによる福音書の15章を開いてください。今まで一緒に放蕩息子のたとえを学んできました。この神様の御言葉の中に多くの教訓を学ばれたと思います。

先回は放蕩息子が救いに至る(3段階の内の)第一歩をふみだしたのをみました。彼はわれに返ったのですね。神様との関係において本心に立ち返ったということです。自分の霊的な状態に気がついたのです。自分の霊的な状態に気がつかなければ誰も救いを得ることは出来ません。それではお祈りを持って学びを始めましょう。

父なる神様、聖なる安息日を感謝します。神様、この人々を与えてくださったことを感謝いたします。神様の聖なる御言葉を学べる機会が与えられまして感謝いたします。あなたの御霊をお送りくださいますように心からお願いいたします。救いの計画の、わたしたちに理解するようにゆだねられている部分を悟る必要があります。同じようにあなたの働きである大きな恵みをわたしたちに注いでください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

ルカの福音書15章の20節を簡単に見てみましょう。放蕩息子が父親との関係において本心に立ち返った後、父親のもとでは召使達がベッドで眠り、よい食べ物があるのに、自分が今豚小屋で生活しているのがとんでもないことだと思いました。それで18節には「わたしは立ち上がる・・・」と言っています。昨晩わたしたちは、彼には決心をする意志の力が必要だったと言うことを学びました。それで彼は決心をしました。20節に「そこで立って」とあります。彼は救いの第2段階を踏み出したのです。20節、「彼は立って、父のところへ出かけた」。

神様との関係において自分の状態に気づかない人に救いの望みがあるでしょうか?ありません。神様のところへ行かない人が救われるでしょうか?ありません。救われるにはたった一つの方法しかないのです。イエス様はわたしによらなければ誰も父のもとにいくことは出来ない、とおっしゃいました。わたしの所に来る人は誰も追い払うことはしない。神様だけがわたしたちを救うことがお出来になるのです。天においてわたしたちを救いえる名は神様以外にはありません。わたしたちが自分の霊的な状態に気がついたら、イエス様のところに行かなければなりません。

20節を見るとわたしたちがどのように受け入れられるか述べられています。20節の半ば、「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめては知り寄り、その首を抱いて接吻した」。ある人達は自分は本当に罪深いと感じます。ある人達は神様には受け入れて貰えない、またあまりにも悪いことをしてきたので神様は自分のことは好きでないに違いない、と感じます。ですがこの聖句は神様がどのように罪人を受け入れてくださるか表しています。放蕩息子は父のお金を使い果たしました。放蕩息子は父親を侮辱しました。彼は家族の恥でした。ところが彼が帰ってきたとき、息子に走りより、その首を抱いて接吻をしたのです。そういうわけでわたしたちでさえも、どのように神様に受け入れられるかと悩む必要はありません。神様の愛はわたしたちの罪よりはるかに、はるかに大きいのです。そしてわたしたちは神様に受け入れられるのです。

残念なことに、人間は神様がなさると同じようには行動しません。あるとき教会員になった姉妹がいました。彼女がバプテスマを受けたときに、彼女がまだタバコを吸っていることは誰も知りませんでした。しかし彼女はそのことで罪悪感を抱いていました。そういうわけでまもなくして彼女は教会に来なくなりました。教会に来るには自分は余りにも罪深いと感じたのです。2年後に神様は彼女の喫煙に勝利を与えられました。そして彼女は自分の教会に帰ってきました。彼女が再び教会の扉を開けたとき、ある強い、年を取った婦人達が彼女を迎えたのです。ですが彼らは彼女に親切ではありませんでした。彼らは「まあ、暇になったので帰ってきたの?」と言ったのです。ですが彼女は教会に戻ることを決心して帰ってきたのです。

なぜなら彼女はやさしい人達に受け入れられたからではなく、イエス様によって受け入れられたので教会に戻ってきたのです。わたしたちは気をつけなければなりません。もし神様がわたしたちをこのように受け入れてくださったのであれば、それならば同じようにお互いを受け入れるべきではないでしょうか?神様が哀れに思って、走りより、首を抱いてわたしたちに接吻をしてくださるのです。ならば厳しい顔をして相手を迎えるわたしたちは一体何者でしょう?わたしたちはイエス様が持っておられる愛を反映しなければなりません。お分かりになっていただけますか?あなたは優しいでしょうか?愛に満ちていらっしゃるでしょうか?

21節を見てみましょう。21節、「息子は父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません』」。ここで放蕩息子は何をしていますか?ここで彼は救いに至る第3段階を踏みだしたのです。本心に立ち返り、父のところへ行き、そして自分の罪の告白をしたのです。これは理にかなったことでしょうか?神様は大き過ぎるを求めていらっしゃいますか?この世界中でこれだけのことができない人がいますか?いいえ、わたしたちすべての人ができます。たとえわたしたちが首から下が麻痺したとしても、体が動かなくても、心の中でできるのです。わたしたちは難行苦行をする必要もなく、ローマやメッカに巡礼する必要もありません。お金を払う必要もありません。一生懸命働く必要もありません。すべてわたしたちがしないといけない事は、本心に立ち返り、唯一わたしたちを救うことの出来る神様の下に行き、そしてわたしたちの罪を告白するのです。皆さんはこのことをなさいましたか?もしあなたがそのことをなさったならば、何が分かりますか?

22節を見てみましょう。22節、「しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、履物を足にはかせなさい』」。最上の着物は何を表していますか?イエス様の義を表しています。わたしたちのすることはただイエス様との関係において本心に立ち返ることなのです。そして唯一救うことの出来るイエス様のところへ来るのです。

わたしたちが罪を告白するとき、わたしたちはわたしたちの汚れた衣を脱いでいるのです。するとすぐにイエス様はご自分の義の衣をわたしたちに着せてくださるのです。そしてわたしたちは救いを得るのです。難しいことでしょうか?確かに難しいことも含まれています。時には自分の罪を告白するのは難しいことがあります。でもそんなに難しいことではありません。なぜならどのようにわたしたちが受け入れられるか知っているからです。聖書はわたしたちがどのように受け入れられるか述べています。ですからイエス様のもとに来ることを怖れてはなりません。それだけでなくわたしたちがイエス様に罪を告白するときに、イエス様がそれをご存知でないというようなことでないのです。イエス様はわたしたちのすべてをご存知なのです。イエス様はただわたしたちが罪に気づくのを待っていらっしゃるのです。

告白と言うことについて少し考えてみたいと思います。ヨハネの第一の手紙1章の9節。皆さんはこのところは暗記していらっしゃると思います。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」。これは本当ですか?そんなに簡単なことなのですか?聖書はそのように言っているのです。聖書がそう言っているのです。これはわたしの度肝を抜くような聖書の約束の一つです。本当に単純すぎるほど単純です。そしてそれは絶対的に真実なのです。もしわたしたちが罪を告白すれば、神様はわたしたちの罪をお赦しになります。そして一度罪を告白し、神様がお赦しになれば、もうわたしたちの罪の責任は問われないのです。わたしたちはまさに今までに全く罪を犯したことが無い者のようになるのです、神様の目には。なぜならイエス様が十字架で罪の価を支払ってくださったからです。ですから今わたしは、神様の目に全く完全な人たちを目の前にしているわけです。それが真実であることを願います。わたしはそれが真実であることを知っていますが、皆さんにとってそれが真実であることを願います。なんと簡単なことでしょう。そしてなんと素晴らしいことでしょう。

皆さんはマルチン・ルターの話を聞かれたことがあると思いますが、マルチン・ルターは彼が幼い頃自分の救いのことが頭から離れませんでした。自分が救われることが何にもまして重要なことでした。彼の考え方は彼が属していた教会に影響されていました。それは論理的な考え方でした。もし罪が問題ならば、することはただ罪を犯さないこと。そうすればすべてはそれでよい。とても論理的です。しかしうまくいかないのです。マルチン・ルターは罪を犯さないように努めました。天国に救われたいという願いのほかに彼の望みは無かったからです。ですがどれほど一所懸命頑張っても罪を犯し続けました。

彼は十代になりました。彼の父親はマルチン・ルターが本当に賢い少年であることに気がつき、ルターを弁護士にするために大学に行かせました。しかしルターは救いのことが頭から離れませんでした。彼が考えることはただただ、どうしたら罪を犯さないようになれるか、という事でした。ある日彼はある計画を思いつきました。彼はこれは確かにうまくいく、と思いました。パーティを開いて、友達全部を招待し、自分の大事にしているものを全部分け与えました。

パーティが終わってから、彼は一番近い修道院に行きました。彼は修道院の中にいる人たちに言いました、「わたしは修道僧になりたい」と。彼らはルターを受け入れてくれました。ルターの考えは、この修道院の中いる僧侶達は一日中祈っているから罪を犯すことが出来ない、確かに一日中お祈りをしていれば罪を犯すことはないだろう、というものでした。彼はついに勝利した、と思いました。しかしそうではありませんでした。それもうまくいきませんでした。

罪は状況の問題ではなく、人間の本質の問題なのです。マルチン・ルターは本質的に罪人だったのです。生まれつきの罪人は罪を犯すのです。彼は自分を鞭打つようになりました。彼は多くの断食をしました。霊的な苦行をしました。余りにもやり過ぎて彼はとても重い病気になりました。二十代初めのマルチン・ルターは死の床に伏してしまいました。重篤な状態でした。

年を取った別の修道院の僧侶がマルチン・ルターに何が起きているか耳にして、マルチン・ルターのいる修道院へとやって来ました。彼はルターのいる個室へ行き、ルターのベッドのそばにひざまずきました。そしてルターに、「わたしのあとについて主の信条を繰り返しませんか?」と尋ねました。ルターは「はい、はい、そうします」と答えました。それでその年老いた僧侶は主の祈りというものを唱え始めました。そしてルターは彼の後についてそれを繰り返しました。この言葉のところにきました。「わたしは罪の赦しを信じます」(注:「信じます」に力を込めて)。マルチン・ルターは「わたしは罪の赦しを信じます」(注:単調な言い方で)。「いいえ、いいえ、そうではない」。そして年老いた僧侶はまた繰り返します、「わたしは罪の赦しを信じます」(注:「信じます」に力を込めて)。ルターはまたその後について繰り返します、「わたしは罪の赦しを信じます」(注:単調な言い方で)。「いいえ、いいえ」。すると僧侶はもっと声を張り上げて「わたしは罪の赦しを信じます」(注:「信じます」にもっと力を込めて)と繰り返しました。老僧侶は繰り返すたびに「わたしは罪の赦しを信じます」とますます「信じます」を強調していきました。ついにマルチン・ルターの頭の中に光がさしました。「もしもイエス様がわたしたちのすべての罪を十字架で負ってくださったのであれば、イエス様はわたしたちのすべての罪の価を支払ってくださったのであれば、それならば罪の赦しを信じるのは自分の権利であり、義務である」と気づいたのです。その日以来、彼は解放されました。もちろん彼はやがて宗教改革の一人者になりました。

ホワイト夫人がどのようにおっしゃっているかご存知ですか?1888年の資料948ページ、「真の宗教とは、聖書の唯一の宗教とは、罪の赦しを信じることです。キリストの義と子羊の血を信じることです」とあります。これは真実ですか?そんなに簡単なことですか?そうなんです!わたしたちの頭脳を混乱させているのは、多分これは他の人には真実だろう。そしてこのことは自分にも多分真実であろうと信じることがとても難しいのです。なぜならば自分はとても悪い人間だと思っているからです。または自分はとっても悪いことをしてしまったからと。

サムエル記下12章をお開き下さい。これはご存知のようにダビデの話です。ある日の夕方ダビデは王宮の屋上に出ていました。彼の軍隊は遠く離れた国で戦っていました。彼は何もする事はありません。彼が屋上にいたとき、ある女性が水浴びをしていました。彼女の名前はバテシバです。人から見えることころで水浴びをしながら何をしていたのかはわたしは知りませんが、ダビデは僕を遣わして彼女を彼の所に来させたのです。聖書は彼らが何をしたかは言及していませんが、1ヶ月ほど経ってから彼女は「わたしは妊娠しました」と手紙を届けたのです。ダビデはそれを聞いて困りました。

そこで彼は計画を練ったのです。ダビデはバテシバの夫を戦いの前線から呼び戻し、大宴会を催し、彼を酒に酔わせました。そして彼が大いに酔った頃、ダビデは彼に「妻のいる家に戻りなさい」と言いました。しかしこのウリヤというバテシバの夫は妻のところに帰りませんでした。実際のところ、彼は城壁で囲まれた街を出て、外で野宿しました。ウリヤはダビデの計画をくつがえしてしまったのです。それでダビデは手紙を書き、封筒に入れ、バテシバの夫に渡しました。そしてダビデは「これを最前線にいる将軍に渡すように」とウリヤに命じました。その手紙には「この人物、ウリヤが戦死するよう彼を配置せよ」と書いてありました。そしてウリヤは殺されました。

このようにしてダビデは姦淫を行い、殺人をも犯したのです。しかし彼に罪の意識はありませんでした。なぜなら彼は王だったからです。王様は自分の思ったことは何でも出来るのです。そのように王様は考えるのです。しかし神様はそのようには考えられません。そこで神様はナタンという預言者を彼の元に送られました。ナタンは一つの例え話を持って王ダビデのところにやって来ました。彼は話しました、「多くの羊を飼っているとても裕福な人がいました。隣にはたった1匹の雌羊を飼っている貧しい男がいました。その貧しい男はこの雌羊をとっても可愛がっていたので、一緒に同じものを食べ、一緒に寝ていました。この富める人のところにお客がありました。彼は自分の羊を殺して客をもてなす代わりに、貧しい男の雌羊を殺したのです」。そしてその話を聞いて、ダビデは怒りました。「その金持ちの男は4倍にして償わないといけない」とダビデは言いました。その時ダビデは気がついていませんでしたが、彼は自分自身に向かって罪の宣告を下していたのです。ダビデは4倍の償いをしました。彼は4人の息子をその後失いました。わたしたちが罪を犯すときそこには必ず結果が伴います。わたしたちはゆるされるでしょうが、ああ、しかし罪の結果に苦しむのです。ダビデがこの例え話を聞いたとき、彼はその金持ちの男を罰しないといけないと思いました。

ですがサムエル記下12章7節を見てください。「ナタンはダビデに言った、『あなたがその人です』」。わたしはこの7節の後のところが気に入っています。「イスラエルの神、主はこう仰せになられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救い出し、あなたに主人の家を与え、主人の妻達をあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう』」。昨日わたしたちは、神様は神の子イエス様と共に確かにわたしたちにすべて与えられたと学びました。神様はその事をここでダビデにおっしゃっているのです。わたしは、これも与えた、これも与えた、これも与えたと。そしてそれでも、もし不足があるならば、わたしはもっと、もっと、もっと、すべて与える、とおっしゃっているのです。ただ罪を犯してはいけない。しかしダビデは罪を犯しました。

そしてダビデは自分が有罪であると悟りました。それでダビデは罪を告白しました。さてこの告白で奇妙なことがあります。英語の聖書ではたったの6文字なのです。13節、「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪を犯しました』」。大した告白ではないのではないでしょうか?彼は姦淫を犯し、殺人を行い、そしてそれが発覚し、彼は「ごめんなさい」と言ったのです。神様はどうなさったでしょうか、見てみましょう。そしてナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう」。ダビデはゆるされたのです。

この話を聞いてある人たちは、バテシバとウリヤに対して本当に同情をします。これは不公平だ、と思うのです。1人の男は妻を失い、自分の命をも失ったのに、有罪の人が「ごめんなさい」と言ってそれでゆるされたのです。これは公平ですか?神様の秤ではすべてが公平なのです。ウリヤに関してはどこかで埋め合わせをしていらっしゃると思います。どうしてこうなのかわたしには分かりません。しかしもしわたしたちが罪を告白するならば、神様は忠実なで義なる方なのでわたしたちの罪をゆるしてくださるという事をわたしたちは知っています。そしてわたしたちをすべての不義から清めて下さるのです。ダビデは同じ罪をまた犯しましたか?いいえ。彼はその罪から清められたのです。

実のところ、15章の30節を見てみると、ダビデがこうむった結果に関して言えば、彼の息子であるアブサロムは王権をダビデから奪い、父であるであるダビデを殺そうとしました。30節、「ダビデはオリブ山の坂道を登ったが、上るときに泣き、その頭をおおい、はだしで行った。彼と共にいる民も皆顔をおおって登り、泣きながら登った」。ダビデはとても悲しみました。彼に今起きていることではなく、それが彼の失敗のゆえに起こっているからです。ホワイト夫人がこのことに関してどのようにおっしゃっているかご存知ですか?祝福の山12ページ、3段落目、「良心に責められたダビデが命からがら逃げた時ほど、無限の愛のみ心がいとしく思われたことはなかった」。

ダビデが罪を犯す前は、本当に神様に心をささげた人であったと聖書は語っています。ダビデは姦淫を犯しそして殺人も犯しました。姦淫を犯した後で、殺人を犯したわけです。そして彼は本当に後悔しました。しかし神様の目にはダビデが罪を犯す以前よりもっと愛おしい存在になったのです。これは本当に奇妙な概念ではないでしょうか?しかしこれが神様なのです。神様はわたしたちが罪人であることをご存知です。神様は罪人が何をするかご存知なのです。しかし神様はこれらのことに対して怒りを発する代わりに、罪がどのような結果をもたらすか、またどのような痛みを伴うかを思い、その心は同情と悲しみに満ちているのです。

ヨハネによる福音書第8章をお開き下さい。皆さんが良くご存知の物語ですが、一緒にそこを読む前に皆さんに警告します。わたしの神学はとっても変わっていると思われるかもしれませんが、わたしの話が終わるまでわたしを非難しないで下さい。なぜなら最後には皆さんに納得していただけると思うからです。そうですね、少し奇妙に聞こえるかもしれません。ヨハネによる福音書8章。パリサイ人のグループが集まっていました。その当時パリサイ人というのはその当時の牧師なのですが、その牧師のグループが集まり、皆さんが牧師ならそのようなことは絶対しないだろうと思われるようなことを彼らがしたのです。彼らの中から1人を選び、売春婦と姦淫を犯し、その現場で彼らを捕まえたのです。

4節を見るとそのことが分かります。「先生、この女は姦淫の場で捕まえられました」。彼らはイエス様の前に女を引きずってきて、そしてイエス様に言いました、「この女は姦淫の現場で捕まえられました。聖書はこういう女を石で打ち殺せと言っていますが、あなたはどう思いますか?」もしイエス様が石で打ち殺せとおっしゃったならば、彼らはイエス様がローマの権威を侵害したとしてローマ政府に訴えるのです。そしてイエス様が石打ちの刑にしてはいけない、とおっしゃるならば、「ごらん、彼は救い主なんかではない。聖書を信じていないじゃないか!」と言うのです。彼らはイエス様を罠にかけたと思いました。イエス様を罠にかけるというのはなかなか出来ることではありません。

イエス様はその罠から抜け出す他の手立てをご存知でした。聖書には、「夫が妻を連れて来ないといけない」と書かれています。そこには夫はいませんでした。聖書は「有罪の二人が裁判官の前に引き出されなければいけない」と言っていますが、彼らは姦淫をした女だけを連れてきて男は連れてきませんでした。しかしイエス様はこの方法をとられませんでした。その代わりにイエス様は、「あなた方の中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」とおっしゃったのです。それからかがみ込んで地面に何か書き始められたのです。イエス様は何を書いておられたのですか?そうです、イエス様は彼ら、パリサイ人、当時の牧師達の罪を地面に書いておられたのです。まず一番年配のパリサイ人から初めて一人ひとりの罪を書いていかれました。10節、「そこでイエスは身を起こして女に言われた、『女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか』。彼女は言いました、『主よ、誰もございません』。イエスは女に言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』」。

さあ、ここで神学的な問題が起こってきます。どうしてイエス様はここで、女は姦淫の現場で捕まえられたのに、「わたしもあなたを罰しない」と言えたのでしょうか?姦淫は罰せられるべきではありませんか?何よりもまず、イエス様は姦淫を罰しないとはおっしゃいませんでした。イエス様は、わたしはあなたを罰しないとおっしゃったのです。それでもわたしの中では何かがおかしいと思うのです。彼女は姦淫を犯したのです。どうしてイエス様は、わたしもあなたを罰しないとおっしゃることが出来たのでしょうか?

ところで有罪宣告(裁き)と言う言葉の反意語は何ですか?信仰と行いという小さな本がありますが、104ページ(英文)に、「義認は有罪宣告(裁き)の反対である」と書かれています。イエス様は、わたしもあなたを罰しないと否定的におっしゃっていますが、肯定的に、わたしもあなたを義とする、と言えたのです。イエス様がここで実際におっしゃっていることは、わたしはあなたの罪をゆるす、ということなのです。この女の人は罪を告白しましたか?その記録はありません。その女性はその罪から悔い改めたでしょうか?そうかもしれません、でも記録はありません。イエス様はその彼女にゆるしを差し出したのです。イエス様にどうしてそのようなことが出来るのですか?なぜそのようなことをされたのでしょうか?実はこれが人を助ける唯一の方法であるとお伝えしたいのです。これがわたしたちが他の人々を扱わなければならない方法であるとお伝えしたいのです。

一つ質問します。この女性はこの世界に生まれることを願ったでしょうか?そうではありません。皆さんの中で何人の人がここに生まれる事を願って生まれてきましたか?もし生まれる場所を選ぶことが出来るとしたら、この世界に生まれることを選びますか?わたしはそうしません。彼女がこの世界に生まれてきたことを神様はとがめることが出来たでしょうか? いいえ、出来ません。彼女が生まれたのはそれは彼女の過ちでしょうか? そうではありません。この女性は罪の性質を持って生まれてくることを願ったのでしょうか?もしあなたが罪の性質を持って生まれてくるか、完璧な性質を持って生まれてくるか選ぶとしたら、どちらを選びますか?彼女が罪の性質を持っていることを神様はとがめることが出来ますか?いいえ、できません。それは彼女の過ちではありません。また皆さんの過ちでもありません。罪深い性質を持った人は何をしますか?罪を犯すのです。

神様はわたしたちの罪を罰することが出来ますか?ここがわたしの不可思議な神学が入り込むところなのです。神様はわたしたちが罪人であることをとがめたりはされません。そして罪人は罪を犯すのです。神様はわたしたちが罪を犯すことを罰したりはされません。皆さんはこれが真実であることをご存知でしたか?これは普通教えられていることではありません。でもまだトマトは投げないで下さい(注:非難はしないで下さい、の意)。まだ説明が終わっていません。

わたしはマダガスカル島に4回行ったことがあります。マダガスカルはアフリカのインド洋側に位置する島です。マダガスカルで起きた一つの話をしたいと思います。わたしに起きた話ではなく、友人のキム・ビューソーが経験したことです。マダガスカルで一つのプロジェクトをしていました。ある日、キム・ビューソーとアメリカからの友人の二人がプロジェクトを行っているところからタマタブという街へ行きました。彼らは街の野菜や果物を売っている市場にいました。彼らはプロジェクトのための買い物をしていました。その間ずっと彼らの後を二人の女の子がついて来て、手を差し出したり、お腹をさすったりしながら彼らに施しを求めていました。とても悲しそうな顔もしました。そして当然可愛そうに思って何かをしあげないといけないように感じるわけです。わたしは友人がどんな人か知っています。彼はバナナを買って女の子達それぞれの手にバナナを渡しました。この女の子達はバナナを隠しに行って、そして戻ってきてはまた物乞いを続けました。

お昼近くになって、彼らはお腹がすいてきました。それでタマタブの街に昼食をするレストランがないか探し始めました。そして彼らはこのタマタブの街では正午になるとレストランの従業員が食事をするためにほとんどすべてのレストランは閉じてしまうことに気がつきました。資本主義ではありませんよね?アメリカでは正午にレストランを閉じるようなことはしません。ついに1人の男が彼らのところにやって来て、「あなた達がレストランを探していると聞きました。タマタブには一軒だけお昼に開いているレストランがあります」とその男は彼らに言いました。それを聞いて彼らは力車に飛び乗り、レストランに向かいました。

1ドルで何でも食べられるレストランでした。ただし台所に入って行かなければすべて大丈夫と言う話ですが・・・・。食事が終わってレストランのドアを出ました。ドアを出たところで1人の男が待っていて、そして言いました、「さあ、あなた達は今お腹を満たしたから、今度は性欲を満たしませんか?」もちろん彼らがその男を退けたのは分かっています。そしたら「いやいや、この女の子達は若くて、処女ですよ。8歳9歳の女子たちですから」と続けて言いました。もう本当に彼らはこの男を靴で蹴るようにして追い払ったと思います。

ここでキム・ビューソーが話してくれたことがあります。その夜彼が家に戻って床に就きました。目を閉じるたびにその日彼らの後をずっとついて来て物乞いをしていた女の子達の顔が浮かんできました。8歳か9歳の女の子達です。マダガスカルに彼らが生まれたのは彼らの過ちですか?わたしたちはそれをとがめますか?いいえ、それは彼の過ちではありません。彼らがタマタブに生まれたのは彼らの過ちですか?もし彼らが8歳か9歳で売春という行為に巻き込まれたとしたら、それは彼らの過ちですか?そうではありません。もし彼らを姦淫の現場で捕まえたとしたら、あなたは彼らを裁きますか?いいえ、彼らの過ちではないのです。8歳か9歳の女の子達です、彼らの過ちではありません。皆さんはそれが真実だと分かっていらっしゃいます。

皆さん、同じことなのです。わたしたちは罪の世界に生まれて来ました。わたしたちは罪の性質を持って生まれてきました。罪の性質を持った人間は罪を犯さざるを得ないのです。そこには有罪宣告の根拠はないのです。しかし聖書には裁きが満ちています。それではいったい聖書は何を有罪としているのでしょうか?ヨハネによる福音書3章を見てみましょう。この章は、「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった」というところです。その後の17節を見てみましょう。17節、「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく」。どうして裁かれないのですか?なぜなら、わたしたちの過ちではないからです。でも裁きがあります。裁き、有罪宣告とは何ですか?19節、「その裁きというのは、光がこの世に来たのに、人々はその行いが悪いために、光よりも闇を方を愛したことである」。これが裁き、非難されるべきことなのです。

これを説明してみましょう。もし人が病気だったら、皆さんはその人が病気だということで裁きますか?裁きませんね。もしその人が薬を取らないとしたら、それは誰の過ちですか?これが「裁き」の意味なのです。わたしたちは罪という病にかかっているのです。神様は罪という病にかかっていることを裁かれません。しかし神様は救済策を提供してくださいました。それがイエス様です。その救済策は神様の御言葉です。その救済策は預言の霊であり、神様が天から与えてくださった光です。皆さんはイエス様をどうなさいますか?神様の御言葉をどうなさいますか?預言の霊を読まれますか?皆さんの人生に上に輝いた光をどうなさいますか?たった今わたしがお話したことを理解していただけますか?わたしたちは神様が与えてくださった光にしたがって裁かれるのです。光はわたしの罪の病を癒します。しかしもしわたしたちがその光を拒むならば、わたしたちは薬を拒んでいることになるのです。そしてこれが裁き、有罪宣告なのです。光はこの世にきました。しかし人間は光より闇を好みました。

皆さんは他の人をどのように扱われますか?皆さんは人を非難し、裁いたことがありますか?時間を無駄にしています。非難や裁きは何の助けにもなりません。まず第一に彼らの過ちではないのです。証の書から2つほど引用文を読んでみます。

福音宣伝者373ページ(英文)、「主がその民に望まれることは、過ちを非難するより他の方法を取ることです。たとえその非難が正しくても、非難してはなりません。決して非難してはなりません。それは彼らの過ちでないのです。罪を犯している彼らに対して同情を示しなさい」。

他の引用文ですが、教会への証5巻345ページ(英文)、「わたしたちは他人を非難すべきではありません。これはわたしたちの働きではありません。わたしたちはお互いに愛し合うべきです。お互いに祈りあわなければなりません」。

それではこのことを聖書から見てみます。コリント人への第二の手紙5章19節。「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」。神様がどうなさったか注意してみてください。「その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」。わたしたちは人と神との間に和解をもたらすように求められています。それは非難や裁きによってなされるものではありません。神様でさえわたしたちの罪をわたしたちに負わせることはしないと決心して下さいました。なぜならわたしたちは非難よりも愛により良く応答するからです。

お立ち下さいましてお祈りいたしましょう。天のお父様、あなたの御言葉を心から感謝いたします。あなた様がどのようにわたしたちの人生に働いてくださるかを理解できて感謝いたします。わたしたちを裁かれないことを感謝いたします。癒しの光を与えて下さり感謝いたします。イエス様を感謝いたします。あなた様の聖なる御言葉を感謝いたします。あなた様が与えてくださっている薬がわたしたちの体の真髄までいきわたります様にお助けください。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン

6.本心に立ち返る、父の家に帰る
8.父からの賜物