8.父からの賜物

7.罪の告白、喜び迎える父
9.兄息子の宗教経験

コラム 「放蕩息子のたとえから学ぶ救済の計画と信仰による義」  フランク・フォニエ氏の講演より

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ルカによる福音書15章22節から見ましょう。放蕩息子は家に帰ってまいりました。彼は心から歓迎されたのです。今、父親は彼に自分の賜物を与えようとしています。わたしたちに対する賜物が非常に象徴的に描かれています。一般的にわたしたちが理解している以上のものです。「しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい』」。わたしたちはすでに最上の着物とはどういうものを象徴しているか知っております。わたしたちが罪を告白するとすぐ、自分の汚れた衣を脱ぐわけです。そして主は、ご自身の義の衣を代わりにわたしたちに着せてくださいます。預言の霊は、「キリストの義がすべてのことを成し遂げる」と言っております。わたしたちの生涯を全部清めてくださいます。そしてイエス様と同じような生涯を生きる力を与えてくださいます。それほど大きな賜物をわたしたちは他にいただくことはありません。もしわたしたちが義に飢え渇くなら、わたしたちはそれをいただけるのです。これをこれ以上説明する必要はないと思います。

そこで、もう少し理解しがたいところへ入って行きたいと思います。息子に着物を着せた後で、父親は息子の指に指輪をはめてやりました。指輪は何を表していますか。この指輪の背後にある象徴は何ですか。権威ですね。創世記41章を開きましょう。ヨセフの物語を皆さんご存知でしょう。ヨセフはヤコブのいとし子でした。彼は自分が心から愛する妻から生まれた子供でした。ヤコブが一人だけの妻を持てたらどんなによかったことでしょう。ヤコブはおじさんであったルベンから欺かれたのでした。ヤコブはそのために本当に大きな悲しみを経験しました。でもご存知でしょうが、ヤコブ自身が、兄を欺き、父を欺いたのです。わたしたちがすることは測られて、同じように自分にはねかえってきます。ヤコブがしたことが自分にはねかえってきたわけです。ヨセフはヤコブにとって好ましい子供でした。そこで、彼にすばらしい着物を作ってあげました。彼を家族の中で王子のように扱ったのです。

そのヨセフがあるとき夢を見ました。ヨセフはその夢を自分の内にとどめておくほどには成熟していませんでした。そこで兄弟たちの見た夢のことを話しました。いつか、あなたたちはわたしに頭を下げるだろう。彼らはその夢を聞いていい気持ちがしませんでした。ある日、兄弟たちは遠いところに羊を飼いに行きました。ヤコブはその兄弟たちの所に食べ物を持っていくようにと、ヨセフに言いました。兄弟たちはヨセフが丘を越えてやってくるのを見たときに、「おお、あの夢見る者がやってくるぞ」と言いました。「あの夢がどうなるか見ようじゃないか」。彼を殺そうとしたのです。しかしルベンという一番上のお兄さんが、殺すのはいい考えではないと言いました。そこで彼らは、ヨセフを穴に投げ込みました。ルベンがどこかに行っている間に、イシマエル人がやって来ました。ユダがいい考えを思いつきました。イシマエル人にヨセフを売った方がいいと言いました。

そしてイシマエル人はエジプトに行って、パロの侍衛長ポテパルにヨセフを売りました。ポテパルの家でヨセフはたいへん栄えました。ポテパルには妻がいました。そして彼女はヨセフに非常に魅力を感じました。彼女は彼の気を引くためにあらゆることをしました。しかし彼はそれに応えようとはしませんでした。ある日彼が家におりますと、彼女も家におりました。彼の着物をつかんで、彼を行かせまいとしました。そこで彼は逃げました。しかし、彼女は手の残された着物を証拠にして、彼が自分を強姦しようとしたと告発しました。ポテパルはヨセフを知っていました。自分の妻を知っていました。彼には、ヨセフはそんなことをする人間ではないとわかっていました。しかし、妻はそういうことをするだろう。しかしヨセフは奴隷です。普通は、そういうことがあれば奴隷はその場で殺されます。しかしポテパルは状況がわかっていたので、ヨセフの命を助け、自分の名誉のために彼を牢屋に入れました。そこでヨセフは囚人のだれよりも高められました。そして牢屋の中で他の囚人たちの管理人となりました。

ある日のこと、パロの給仕役の長と料理役の長が牢屋に入れられてきました。その後ヨセフが牢屋の中を巡回していたときに、この給仕役の長と料理役の長のいる監房に来ました。彼らは二人とも浮かない顔をしていました。何かいやなことがあったのだなと思った彼は、こんないい所にいながら、どうしてそんな浮かない顔をしているのですかと尋ねました。彼らは二人とも夢を見たと言いました。三つのかご、三つの枝・・・、どんな意味なのかわからない。ヨセフは、わたしはその夢の解き明かしができますと言いました。そして給仕役の長は三日のうちに解放されてパロのもとに帰ることができると言いました。それで料理役の長はその夢の解き明かしにひじょうに励まされて、自分の夢も解き明かしてくれと頼みました。ヨセフは、あなたのはあまりよい夢ではありませんと言いました。三日の後にあなたの首が飛ぶでしょう。そういうわけで、三日後料理役の長は死にました。給仕役の長が解放されたとき、ヨセフは頼みました、「王様にお目にかかったら、わたしを思い出して、わたしは不正にもここに置かれているのだということを言ってください」。料理役の長はそれを思い出しましたか。思い出しました、3年後に。

パロが夢を見ました。七頭の肥えた牛、ガリガリにやせた七頭の牛がいて、やせた牛が肥えた牛を食い尽くしてしまったという夢でした。パロはその夢にたいへん心が騒ぎました。これはどんな意味か知りたいと思いました。しかしエジプトの賢者も、魔術師もだれもその夢を解き明かすことはできませんでした。そのとき、給仕役の長が、「ああ、そうだ、思い出した。牢屋の中にあなたの夢を解き明かせる人がいます」と言いました。そこでヨセフが牢屋から呼び出されました。彼は夢を解き明かしただけでなく、パロにこの状況をどのように取り扱ったらよいか提案しました。

パロはそれを聞いて、この人物に非常に強い印象を受けました。そして、パロは、彼をエジプトじゅうを治める者にしました。わたしは思うのですが、多分パロはとても若かったのではないでしょうか。というのは創世記の後の方を見ますと、「わたしはパロの父となる」という言葉をヨセフが使っているからです。ヨセフ自身30歳に過ぎませんでした。ですからパロの父というような年齢ではなかったのです。ということはパロは非常に若かったのではないか。ですからパロは自分が尊敬できるだれか、自分を導いてくれるような人を必要としていたわけです。そこで、パロはヨセフをエジプトの支配者にしました。

創世記41章41節。「パロは更にヨセフに言った、『わたしはあなたをエジプト全国のつかさとする』」。42、43節。「そしてパロは指輪を手からはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の鎖をくびにかけ、自分の第二の車に彼を乗せ、『ひざまずけ』とその前に呼ばわらせ、こうして彼をエジプト全国のつかさとした」。ヨセフがこのような権威を与えられたしるしは何でしたか。指輪です。ですから、これが指輪が象徴していることの意味なのです。

ヨセフは牢屋に入れられ、ある日エジプト全国のつかさになりました。放蕩息子は豚小屋にいましたが、自分の父の家に帰り、王国の王子のようになったのです。しかしここにわたしたちに対する教訓があります。わたしたちは罪の豚小屋に行くことができます。そしてわたしたちはまた天の王宮に行くこともできます、ある日。そしてわたしたちは指輪をはめていただくことができます。わたしたちが罪を告白するときに、神はわたしたちの汚れた衣を脱がせて、神様ご自身の義でわたしたちをおおってくださいます。それで、わたしたちが清くきれいになるように。そして指には指輪をはめてくださるのです。さあ、今あなたはこの世においての権威を与えられたのだとおっしゃるのです。

ヨハネによる福音書1章の12節のみ言葉を覚えているでしょうか。「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力(権威:欽定訳)を与えたのである」。もしイエス様を救い主として受け入れるなら、イエス様が持っておられたのと同じ権威をこの世において持つことができるのです。不思議なことですけれども、わたしたちはイエス様のように行動していません。わたしたちはこの権威、力を持っていることを信じていません。もし信じるなら、わたしたちはこの世において王子、王女であるかのように歩むことでしょう。わたしたちは別に威張るのではありません。イエス様のようであるのです。柔和で、へりくだります。にもかかわらず、胸を張り、頭を上げます。わたしたちは神の子だからです。わたしたちを恐れさせるものは何もありません。

「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。これがわたしたちに対する神様の約束であります。わたしたちはこの特権のうちに生きているでしょうか。神様の息子、娘となることの意味がわかっているでしょうか。もしわたしたちが信じるなら、わたしたちの内に力が与えられます。そしてわたしたちが道を歩いていても、人々はわたしたちを見てそれを感じるのです。

マルコ13章をお開きください。34節に1節だけのたとえがあります。「それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである」。この人とはだれでしょうか。イエス様ですね。彼をどこへ行かれるのですか。天国へ行こうとしており、弟子たちに語っているところです。「わたしは天へ行くのだよ」と言われます。家を出る、それは教会を離れることです。そして、僕たちに権威を与えられました。それはあなたがたのことです。あなたには権威があります。そしてすべての者に仕事を割り当てられました。神様には無職の僕はないということを知っていますか。本当です。神様は、ご自分のぶどう園にいる者すべてに仕事を与えておられます。多くの人はこれを信じません。それで、わたしたちは神のぶどう園であまり働きません。もしわたしたちが神様のみ言葉をそのままに受け取るなら、それに従って行動するでしょう。

Y2Kを皆さん覚えておられますか。1999年から2000年に移るとき、すべてのコンピューターが壊れるかもしれないというので、みんな心配して、実業界もざわつきました。皆さん信じましたか。アメリカに住んでいた多くの人がそれを信じました。彼らは食料を蓄え、武器を蓄え、水を蓄え、荒野でキャンプをする用意をしました。皆さんも何かしましたか。わたしは何もしませんでした。なぜかわかりますか。この聖句のゆえであります。わたしには何が起こるかわかりませんでしたが、Y2Kが本当か間違いかわたしにはわかりませんでした。わたしはY2Kの以前から神様のために働いていました。Y2Kが本当になったとしたら、それまでよりももっと多くの仕事がわたしにはあることがわかっていました。また、わたしの神様は必要をすべて満たしてくださることを知っていました。ですから、心配して何かを蓄えたりはしませんでした。神様はすべての人に仕事を与えられるのです。イエス様のために働きましょうと、わたしは言いたいのです。イエス様のためにあなたは働きますか。

わたしがアフリカにおりましたとき、若い男性がアメリカからやってきました。彼はアメリカ人ではなく、南米の人だったのですが、アメリカにいて、そしてそこからザンビアへ来たのでした。わたしは彼と数日共に過ごし、そして彼は南アフリカへ行きました。一週間ほどして今度は若い女性がやってきました。金髪で、若くて、彼女は数日わたしたちのところで過ごし、それから彼女も南アフリカへ行きました。そこでわたしは、彼女は男子を追いかけているのだと思いました。南アフリカで彼女は先の男性と会いましたが、うまくいきませんでした。それでも、彼女は南アフリカに7年間とどまりました。彼女はわたしが会った人たちの中で、自然療法、チャコールのことなどを教えるにあたって最高の教師でした。彼女は南アフリカで人々に教え始めました。

彼女はとてもよくできたので、多くの所から要望が来ました。あるとき、彼女はスウェトという場所に行きました。スウェトというのは何だかご存知ですか。スウェトというのはゲットーで、そこに100万人ほどの貧しい人たちが住んでいます。とても危険です。そんなところに白人は近づこうとはしません。さもないと殺されてしまいます。しかしこの金髪の女の子が、とてもきれいなこの子がスウェトに行ったのです。そこで彼女は学校を設立して、アフリカの若い人たちに健康について教えました。

あるとき、彼らがこういう質問をしました。「さあ、わたしたちはこれらのことを全部学んだけれども、これを使ってどうやって暮らしを立てて行けるだろうか」。彼女は言いました。「あなたがたがしなければならないことはただ、戸毎に訪問して、人々の必要を見つけなさい。そして、彼らの必要に応えなさい。1日8時間働きなさい。そうすれば、神様が給料を支払ってくださるから」。これは本当ですか。皆さん、このような勧告をできますか。仕事がないときに、そのようなアドバイスを受け取りますか。ただ戸毎に訪問しなさい、人々の必要を見つけ出しなさい、そしてどうやって彼らを助けられるかを見なさい。そうすれば、神様はあなたに給料を支払ってくださる」。わたしはそれを見ましたが、驚くべきことでした。

クリスチャンはとても大きな有利さを持っています。わたしたちは決して失業することはないのです。わたしはかつて鉱山で働いていました。この鉱山で40年前に毎日100ドル稼いでいました。今ではそれほどたいしたお金ではないかもしれませんが、40年前はこれはかなり良い額でした。わたしは20歳になる前に、家を建てることができました。家の前の車道には新車がありました。そして色々な遊び道具も買うことができました。そしてわたしはクリスチャンになりました。セブンスデー・アドベンチストになりました。そして自給伝道の働きに加わりました。多くの人たちが、学校に行って牧師になりなさいとわたしに勧めました。わたしはいつも牧師になりたいと思っていました。

しかし神様は別の計画をわたしにもっていらっしゃいました。そしていわゆる自給伝道機関と呼ばれる働きに神様はわたしを入れました。わたしは仕事を辞め、自給伝道学校で2年間学生でした。学生ですからお金を稼ぐことはありません。お金を払うわけです。それからスタッフになりました。6年間、わたしは月20ドルの給料をもらいました。月給20ドルと日給100ドルでは違いがありますか。ありますよね。アフリカに行きましたとき、月50ドルの給料をもらっていました。実際、一ヶ月の費用はそれ以上にかかりました。10年間そこにおりました。二人の娘が結婚しました。アメリカへわたしが行く費用を自分で払いました。結婚式の費用も必要でした。

10年後、銀行の口座にはわたしがアフリカに行った時の同じ金額がそこにありました。それがどのようにして起こったのかはわたしには言えません。わたしは37年の間、自給伝道の仕事をしてイエス様のために働きました。ボランティアとして、わずかなお金を得て。しかし、わたしは何も欠けたことがありません。34カ国で福音を宣べ伝えました。奇跡です。奇跡がどんどん続きました。もし神様があなたを召されるならば、主のために働くようにと召されるならば、給料はいくらですかと尋ねてはなりません。それは間違った質問です。応答は、はい主よ、それがあなたのみこころであれば、わたしはそういたしますと言うのです。

マタイによる福音書20章。そこにもうひとつのたとえがあります。このたとえでは、ぶどう園をもっている人が出てきます。彼は日中何回も町の広場に行きました。彼のぶどう園で働いてくれる人を雇うためでした。この人は神様を表しています。そして、彼はクリスチャンをご自分に引き寄せておられます。クリスチャンは、この世というぶどう園で働かねばなりません。彼は九時、十二時、三時と出かけていきました。人々は一日12時間働きます。その人は夕方五時にも出て行きました。皆さん、わたしたちは夕方五時という時間に生きているのだということをご存知ですか。わたしたちは世の終わりに生きています。6節。「五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』」。

皆さんに自問していただきたいのですが、神様のために働いたらどのくらいもらえるのだろうか。その答えは7節にあります。そしてこれがいつも答えです。「彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を受けるから(欽定訳)』」。わたしの神は、すべての必要を満たしてくださいます。聖書は、どのようにして神様がそうされるのかは言っていません。聖書は、ただ神様はそうしてくださる、とだけ言います。わたしには奇跡をもってそれをしてくださいました。ある人は働いて十分な給料をもらっているかもしれません。人みなそれぞれに違います。神様はわたしたちを違ったやり方で扱われます。しかし、最後にはわたしの神はすべての必要は満たされるのです。

わたしの息子はアフリカに24年います。彼は今のタンザニアに18年間います。今はそこの機関の長です。彼は給料をもらうのをことわっています。過去5年間、彼は何も受け取っていません。結婚して三人の子供がいます。彼には不足が何もありません。車を持っています。今年休暇でアメリカにやってきます。家族と一緒に来れば8000ドルくらいかかります。神様は与え、また与え、常に与えてくださっています。機関運営のために彼は給料をことわっています。神様がどうやって息子に与えてくださっているのかわたしにはわかりません。しかし、神様がそうしてくださることをわたしは知っています。

神様の経済的なやり方は不思議です。ヨブ記1章。神様は神の子らの会議を開きました。その神の子たちは異なった世界の責任を持っていました。サタンはアダムの支配権を略奪したので、彼がアダムの代わりに姿を見せました。そして神に向かって自分が神の子であるかのようにふるまいました。神様はサタンを見て、チャレンジをしました。「サタンよ。お前はヨブのように完全な人を見たことがあるか」。8節、「主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。サタンが神様に投げかけた質問に気をつけてください。9節。「サタンは主に答えて言った、『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか』」。これが問いかけです。皆さんは何もなしで神に仕えますか。わたしたちは子供に、「隣の家の芝生を刈ってきなさい。けれどお金をもらってはいけないよ」と言います。少年は芝刈りをします。「いくらかお金をもらえるかもしれない。僕はいりませんと言うけど、どうしても上げると言ってくれるかも」と期待します。それが世の中というもので、わたしたちはただ働きというものはしたくないのです。これがサタンの質問です。「ヨブは神様のためにただ働きをするでしょうか」。彼は世にあって大金持ちです。彼の持っているものを全部とってごらんなさい。たちまちあなたをのろうでしょう。神はおっしゃいました。「では彼からすべてのものをとってごらん」。

サタンはすべてのものをとりましたか。残ったものはわが身だけ。ヨブはそのとき神様をのろったでしょうか。いいえ。そこでサタンは神様のところに戻ってきました。神様は、言われました「おい、サタン、わたしの僕ヨブをみたか」。「ええ、皮には皮をもってせよ、ですよ。彼の健康に手を触れてごらんなさい。彼は何も無しであなたにつかえたりしないでしょう」。そこで神のゆるしのうちにサタンは彼の健康を奪い去りました。ほんとうにひどい状態でした。何ヶ月も。ヨブは神様をのろいましたか。いいえ。すべてを失った後でも、彼は神様につかえました。

ガラテヤ書の6章の3節を覚えていますでしょうか。「もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである」。この聖句は何を言っているのでしょうか。そういう人は何者でもないのだ、と言っているのです。イエス様はだれのために死ぬために、この世界においでになったのでしょうか。人間のために。イエスさまはこの世界に来て、本当に無駄死になさったようなものです。そしてイエス様は無のための何かをなさいました。イエス様がもし無のためにご自分を犠牲になさったとすれば、みなさんは無のために神様に仕えようとなさいますか。そうなんです。神様は仕えられるのにふさわしいお方です。そういうふうに神様はお金をごらんになるわけです。

ルカの福音書15章に帰りましょう。22節。息子が帰ってきて、父親は着物を着せてあげました。指輪を手にはめました。足に靴をはかせました。靴というのは何を表しているでしょうか。皆さん、今日靴をはいていますか。なぜですか。[参加者:「出かけるために」。「足を守るために」。]外に行かねばならないので、足を守るためです。

わたしたちは今、福音全体を見ているところです。放蕩息子は罪人です。依然として罪人です。神様からいただいたすべての賜物を自分のものにしました。そしてそれを全部浪費してしまったのです。神様は彼を追いかけて行かれました。そして賜物をお与えになったのです。そしてこの少年は、「あなたを愛しているよ、家に帰っておいで」と言う声を聞くはずでした。しかし彼はその声を聞かなかったのです。そこで神様はその賜物を取り去りました。彼がたどり着いたのは豚小屋でした。この苦境に立たされて、彼は神様の声を聞き始めたのでした。神様との関係において本心に立ち返ったのです。彼を助けることのできる唯一の方である、父親のもとに行き、罪を告白しました。父親は、義の衣を着せて彼を抱きました。権威のしるしである指輪をはめてあげました。そして足に靴をはかせたのです。そして言われます、「行きなさい」。「全世界に出て行って、わたしのことを語りなさい」。こんなお父さんがいるでしょうか。これが福音のすべてです。皆さんは、靴をはいていますか。行きなさい。よきおとずれを告げる者の足はさいわいであると、聖書は言っています。福音のすべてです。

23節、24節。「『また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった」。祝宴が始まりました。祝宴は天国を表しています。わたしたちは天国に行くと、今までに知らなかったような喜びがあります。もうそのときに、すべての悲しみ、苦しみから解放されるのです。天国の喜びがあるでしょうか。あります。そこに行くまで、この世に喜びはないでしょうか。いいえ、あります。主にあっていつも喜びなさい。喜びなさい。テサロニケ人への第一の手紙5章16節。「いつも喜んでいなさい」。18節、「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」。どのくらい神様に感謝しなさいと書いてありますか。すべてのことについて。どのくらいか、すべてのことについて。神様は正気でしょうか。わたしたちに起こる色々な悪いことを神様はご存じないのでしょうか。神様がご存知ではないということではないのです。神さまはわたしたちを害するようなものに感謝せよとおっしゃったことがありますか。神様にどれくらい感謝せよとおっしゃっていますか。すべてのことについて。どれくらいのことが皆さんを害したでしょうか。罪以外にはどんなものもあなたを害するものはありません。ミニストリーオブヒーリング英文251ページ(和文233ページ)、「この命令は(テサロニケ人への手紙5章18章)事態がわたしたちに不利とみえるときでも、わたしたちの益となるという確証である。神はわたしたちに害になるものに対して感謝の念をいだけとはお命じになっていない」。そういうことです。

放蕩息子のたとえの中で、だれが殺されましたか。牛ですね。牛はそうされるにふさわしかったのでしょうか。牛を殺さずに、祝宴を開くことはできなかったのでしょうか。牛は何を表しているのでしょうか。イエス様ですね。わたしたちが犠牲となることがないように、イエス様が犠牲となってくださったのです。放蕩息子のたとえ話全体はイエス様の血を具体的に述べているのです。皆さんは今、福音の全体をお知りになりました。わたしはこの話を何度もしてまいりました。そのたびにわたしの心に深い感動を受けます。わたしたちはイエス様に仕えていかねばなりません。

天のお父様、今朝わたしたちと共にいてくださったことを感謝いたします。わたしたちが、あなたがどんなにふさわしいお方であるか思い起こさせてくださいました。どうかわたしたちが自分の霊的な状態を知り、そしてあなたのみもとに行き、罪を告白することができるようにお助けください。あなたの義に信頼いたします。わたしたちには今権威があることを信じます。あなたの恵みによってわたしたちは出て行きます。感謝して、イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン

7.罪の告白、喜び迎える父
9.兄息子の宗教経験