6.本心に立ち返る、父の家に帰る

5.窮状は救いの恵みへの戸口
7.罪の告白、喜び迎える父

コラム 「放蕩息子のたとえから学ぶ救済の計画と信仰による義」  フランク・フォニエ氏の講演より

皆さん、こんばんは。ここで皆さんとお会いできてうれしいことです。新しくおいでになった方もおりますね。ルカによる福音書15章の放蕩息子のたとえを学んでいます。話の中ほどからお聞きになる方には少し難しいかもしれません。少しざっと復習をしてみたいと思います。ルカによる福音書15章の11節、このたとえの始まりの聖句です。イエス様がたとえ話をされました。ある人に二人の息子がいたとあります。ある人というのは神様であって、イエス様は、このある人が二人の息子にどのように関わっているかということをわたしたちにわかってほしいと願っておられるわけです。わたしたちが学んできたところでは、二人の息子は、どちらも悪い子であったことがわかりました。

一人の息子は、世の中に出て行って、父親に従わずに、世の生き方をすることに決めました。罪を犯しても、だれにわかるものかという生き方です。兄の方は少し違っていました。彼は家を離れませんでしたし、神様を表している父親のために働き続けました。29節を見ると、彼は父の言いつけをすべて守ったとあります。しかし、兄息子のクリスチャン経験には何か決定的に間違っていることがありました。弟が帰ってきたときに、彼は怒ったからです。このタイプの宗教はわたしたちが望むような宗教ではありません。どちらの息子にも間違ったところがありました。一人は世の中にいて失われており、一人は教会にいながら失われていました。いずれにせよ、二人とも失われていたのです。

12節を見ると、父親が二人の息子に自分の身代をわけてやったとあります。自分の遺産をお酒と遊女のために費やしてしまったわけです。これはわたしたちには理解できないことです。常識では考えられないことです。受ける準備のない人に、未熟な子供に与えるということは常識では考えられません。このたとえ話はわたしたちに常識を捨てなさいということを教えているのではありません。そうではなく、父親は息子を助けるためにどんなことでもするということを示そうとしているのです。福音について語っているのです。福音においては、神様が主導権を持っておられます。神はわたしたちをあまりにも愛しておられるので、ひとり子を与えてくださいました。ローマ書の8章に、「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」と書いてあります。皆さんがキリストにある賜物を信じるなら、あなたはすべてのものを持つのです。イエス様と共にわたしたちは永遠の命を持ちます。御子を持たない者には、永遠の命がありません。

13節。息子は遠い国に行きました。遠い所に行ったのです。彼は楽しみました。彼はもらった遺産を使い果たしてしまいました。しかし、神様は彼を見捨てませんでした。神様はその地にききんをお送りになりました。息子を餓死させるためではありません。彼の魂を救うためでした。神様がわたしたちに与えてくださった賜物はすべて、「あなたを愛している」との呼びかけです。しかし、わたしたちが与えられた賜物に込められたその声を聞き取らなければ、時には、神様はその祝福をわたしたちから取り除くことによって、お語りになります。そこで、このたとえ話の中の息子は自分の遺産をすべて失ってしまいました。祝福は取り去られました。しかし、わたしたちは、すべてのことが相働いて益となることがわかりました。16節でそのことを学びました。さあ、今、放蕩息子は問題を抱えることになりました。豚小屋に彼は座っています。そして飢えています。ここまで、わたしたちは学んできました。

では、ご一緒に頭をたれてお祈りいたしましょう。天のお父様、わたしたちが次のいくつかの聖句を学ぶときに、救いの計画を悟りたいと思います。それ以上に、それを体験したいのです。あなたの愛を知りたいのです。そしてわたしたち自身を完全にあなたにおささげしたいのです。わたしたちが共に学ぶとき、どうか祝福してください。感謝してイエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

放蕩息子は考え始めました。父にはたくさんの僕が家にいる。彼らには寝床があり、食べ物があり、着る物も十分にある。俺はいったいここで何をしているのだろう。彼は救いに向かって歩み始めました。救いに至るためにいくつのステップがあるでしょうか。ひとつだと言う方がおりますね。確かにそうです。ローマ人への手紙10章13節には、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」と書いてあります。そのステップはいくつありますか。たった一つですね。キリストへの道を読みますと、13章あります。そこに書かれていることのほとんどは、救いのためにどのようなことが要求されるかということです。ある人たちは、救われるには7段階を踏まなければと言います。わたしは、どの答えも正しいと思います。どういう見方をするかということなのです。この放蕩息子のたとえを見るとき、そしてどういう段階を踏んでいるかを注意深く見ると、このたとえの中には三つの段階があることがわかります。そして英語では全部Cという文字で始まります(注:三つのCとは次のことを指します。1. Come to your senses-本心に立ちかえる。ルカ15:17、2. Come to your Father (God)-父(神)の元に帰る。ルカ15:20、3. Confess your sins-罪を告白する。ルカ15;21)。そこでわたしは、救いへの三つのCと呼びます。今回は一つだけを学びます。

17節。「そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている』」。本心に立ちかえった(我にかえった:英文)とはどういう意味ですか。彼は、目が覚めたのです、よりはっきりとものごとを見ることができるようになったのです。僕たちは豊かな生活をしているのに、金持ちの息子である自分は豚小屋の中に座っている。自分の状態に目覚めない人が救われるでしょうか。造り主と自分の関係において、自分がどういう状態にあるかについて目覚めない人が救われるでしょうか。いいえ。これはわたしたちがたどるべき最初のステップです。

わたしたちはこの世に生まれて、自分でできる限りのことをして、生きてきました。しかしいつかは目覚めなければなりません。いつかは、自分と神様との関係はどういうものか、考えなければならないときがやってきます。神様とのわたしの関係は正しいだろうか。それとも間違っているだろうか。この時点にわたしたちがやってくるとき、踏むべき段階があります。わたしたちは本心に立ちかえらねばなりません。天に神様がおられることを悟り、自分は惨めな状態にある、神が与えてくださるものを必要としている、そのことに気づかねばなりません。

悪魔がいて、この世の中、わたしたちの周りを歩き回っていて、わたしたちの罪深い性質を知っているということをご存知ですか。悪魔は、罪を犯すことには多大な利益があるということを言いたいのです。悪魔はエバのところに来て、「神様はほんとうにこの木からとって食べてはいけないとおっしゃったのですか」と言いました。彼女は、「ええ、食べてはいけないとおっしゃいました」と答えました。悪魔は「ああ、それはね、神様は知ってらっしゃるのだよ。その木の実からとって食べたら、あなたがたは神様になるんだ」と言いました。サタンはこう言いましたね。それは本当でしたか。いいえ。それは誘惑でしたか。明らかに、誘惑でした。

わたしは健康食品店になじんでいたことがあります。壁の棚に、小さなボトル、液体の入った小瓶、錠剤、あらゆるものでいっぱいでした。小さな錠剤が知能指数を高める、神経を鎮める、エネルギーを与える、筋肉を強くする、減量の助けになる、体重を増やす助けになる、毛髪を増やす、その他あらゆる効能があるといって、並んでいます。質問があります。これらの健康食品店の錠剤のうちどれくらいが実際に役立つのでしょうか。わたしにはわかりません。このことに気づくまで、わたしはたくさんのお金を費やしました。悪魔や、この世、そしてわたしたちの内にある罪深い性質は、わたしたちにある種の夢を追いかけるようにさせます。お金、地位、権力、その他。

わたしにはある友達、女性の方がおりました。彼女のご主人が、彼女を去って、別の女性と一緒になりました。彼女はわたしのオフィスにやってきました。そして泣いていました。彼女には理解できませんでした。ご主人は、彼女があまりにも支配的だといって出て行ったのです。しかし、彼が結婚したその女性は、彼女より10倍も支配的だったのです。その友人は美しい女性でした。そして、彼が一緒になったその女性はそれほど美しくはありませんでした。しかし彼女にはお金がたくさんありました。それでその友人は混乱していました。わたしは言いました、「君が理解すべきことがあるよ。あそこにあるのは、今あなたが持っているものより、もっといいよと、悪魔は僕たちを誘惑する。けれど、そこにあるのは、持っているものよりよいわけではない。むしろ、実のところ、もっと悪いかもしれない。サタンの仕事は、あなたが今持っているものより、もっといいものを与えることではないんだ。それが君のご主人に悪魔がしたことだ。彼はもっとよいものを得たのかい。いや、もっと悪いものだ」。彼女の夫がそのことで、今にいたるまで、どういう教訓を学んだのかわたしは知りません。しかし、わたしはこういう教訓を学びたいとは思いません。

誘惑を誘惑たらしめるのは何かご存知ですか。そこには約束があるのです。すべての誘惑には約束があります。約束がなければ、誘惑になりません。しかし、その約束はいつでもうそだということをご存知ですか。いつも偽りです。そこで、今は、わかりますね。今度誘惑されたときには、だめだと言ってください。それはうそなのです。このことについて、わたしたちは本心に立ち返らなければなりません。あなたは本心に立ち返りましたか。放蕩息子は立ち返りました。そして罪の力、うそがばれました。皆さんはどうですか。もう誘惑に陥ることはありません。というのは、それは偽りであるとわかっているからです。

さて、ここでわたしは皆さんにお分かちしたいことがあります。今週学んだ中で一番大事なものといえるかもしれません。18節です。日本語ではどうかわかりませんが、英語ではこの句の最初の言葉は三つで、I will arise. (わたしは立とう)。そして20節の最初の三つの言葉が、And he arose.(そして彼は立った)となっています。皆さんのほとんどの方は十分に年齢を重ねておられるのでお分かりかと思いますが、実行するより、言うことの方が易しいです。放蕩息子が、「立って、父の家に行こう」と言うのは易しいです。しかしお父さんのことを考えたとき、自分が父親をどれほど侮辱したか、家族にどれほど恥をかかせたかを考えたとき、立ち上がって父親の元に行くというのは易しいことではありません。

また、ほとんどの言語で言われているかと思いますが、日本語ではどうかわかりません。それはこうです、「地獄への道は良い意図という敷石が敷き詰められている」。意味がわかりますか。多くの人たちが、立ち上がって間違った方向へ行ってしまいます。しかし、いつでも方向を変えられると思っています。しかし向きを変えることはありません。良い意図というものを、どうしたら現実にすることができるでしょうか。良い意図の中に欠けているのは何でしょうか。行動です。どうしたら行動に移せるでしょうか。意志、意志の力。皆さんには意志の力がありますか。意志の力が重要だと思いますか。善への願望はとても大事です。しかし、そう願うだけであれば、何にもなりません。放蕩息子は、立って家に帰りたいと言う願いを持っていました。しかし、彼はただ願うだけでなく、それを行動に移さねばなりませんでした。

列王記上18章。これはエリヤの物語です。イスラエルは背信しました。彼らはみなバールの礼拝者になってしまいました。イゼベルが女王で、その夫アハブは王でした。王はイスラエル人、イゼベルは異教徒で、非常に強い性格でした。彼女は濃い化粧をして、身を飾っていました。(あまりにも悪名高いので)誰も、自分の娘をイゼベルと名づけません。だれも息子をユダ(イエスを裏切ったイスカリオテのユダのこと)と名づけません。イゼベルはあまりにも強かったので、夫アハブにバアル礼拝をさせました。アハブは王でしたから、全国民がそれに続きました。真の神様を礼拝しませんでした。

神様はそれを案じられました。神様にはエリヤという預言者がいました。彼らは一緒に集まって、もし三年半の間雨が降らなければ、その注意を引けるだろうと決めました。そこで神様はエリヤに、アハブのところに行ってそのことを告げなさいとおっしゃいました。エリヤはアハブの宮殿に行き、門番を通り過ぎて、王のまん前に行きました。そして、「三年半、露の雨もない」と言いました。そして向きを変えて出て行きました。気がついた時には、もうエリヤはいませんでした。

三年半、雨は降りませんでした。動物は死んでいき、人々も死んでいき、ひどい状況になりました。三年半の終わりに、神様は再び預言者と接触し、「アハブのところに戻って、こう告げなさい。カルメル山の上で会おうと」。エリヤは、アハブに会って「イスラエルのすべての人とバアルの預言者を連れて、カルメル山に集まってください」と言いました。カルメル山にみんなが集まったとき、エリヤはたった一人でした。全国民が彼に敵対していました。そこには王がおり、軍隊がおり、450人のバアルの預言者、400人のアシラの預言者がいました。気をつけていないとエリヤは殺されるでしょう。しかし彼は恐れませんでした。神が共におられたからです。

そして彼はまっすぐに問題そのものを指摘しました。21節。「そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、『あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい』。民はひと言も彼に答えなかった」。なぜ、民はひと言も彼に答えなかったのでしょうか。その句の中に書いてあります。二つの意見の間で彼らは迷っていたからです。フェンスの上に座っており、どちら側に降るか、迷っていました。彼らは優柔不断でした。彼らには意志の力がありませんでした。イスラエル人ですから、真の神を礼拝しているべきですが、バアルを礼拝するように説得されてしまいました。彼らはどうしていいかわからないのでした。決心ができませんでした。これは奇妙なことではありませんか。

聖書の中には三人のエリヤがいることを民さんご存知でしょうか。わたしたちが話しているこの人はオリジナルのエリヤです。彼はイスラエルの霊性が非常に低いときに現れました。そして神様はこのエリヤを送って、リバイバルと改革を起こさせようとなさいました。聖書の中で二番目のエリヤはだれでしたか。イエス様が言われたことを覚えておりますか。イエス様は弟子たちに、語っておられます。そしてバプテスマのヨハネを指して、「この人こそ来るべきエリヤである」とおっしゃいました。バプテスマのヨハネもイスラエルの霊性がとても低いときに現れました。そして彼はリバイバルと改革を起こして、来るべきメシヤに備えさせる働きをしたのです。マラキ書を見ますと、4章に三人目のエリヤが出てきます。これは終わりの時代、わたしたちが生きているこの時代のことを語っています。ですから、この時代に来るべきエリヤが現れます。

そのメッセージはどういうものだと思いますか。黙示録3章を見ましょう。黙示録3章には、七つの教会を見ます。それらは全キリスト教会を表しています。最後の教会、これが終わりの時代のキリスト教会です。15節16節を見ましょう。「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」。今日のキリスト教はイエス様を病気にしています。イエス様は彼らが彼のために火のように燃えてほしいと願っておられます。しかし教会をごらんになると、冷たくも熱くもありません。二つの意見の間に挟まっています。フェンスの上に乗って、どちら側に降りようか迷っています。面白いことがたくさんある世の中から出たくない、失われたくないから教会を去りたくもない。世の中にもいたいし、教会にもいたい。神様はそれはだめだとおっしゃいます。あなたは決心しなくていけない。わたしたちは決断できますか。決断するのは大事なことですか。

お話をひとついたしましょう。わたしには決断しなければいけないことがありました。わたしはカトリック教会の家庭に育ちました。わたしは聖書を見たことがありませんでした。25歳になるまで、聖書を見たことがなかったのです。25歳になってわたしは聖書を探り始めました。始めから終わりまで読みたいと思いました。そして聖書を全部読んだ後、決心しなくてはならないと思いました。しかし、そういうわけにはいきませんでした。2週間で聖書を読みました。み言葉には力があります。わたしはこれは神の言葉と確信しました。わたしは、まだ25歳でした。ある日、わたしはひざまづきました。そして神様にお祈りしました。「わたしは救われたいと思います。天国に行きたいです。わたしは信じます。けれども、わたしはたった25歳です。これから生涯やることがたくさんあります。またいつか呼んでください。そしたらわたしは参ります」。

神様はなんとわたしにお語りになったと思いますか。どういうふうに語って下さったのか、言うことはできません。声を聞いたわけではありません。けれどもわたしが作り出したのではない考えが、わたしの頭の中に生じたのです。神様は、こう言われました。「だめだ。君に別のチャンスはもう来ない」。意味がわからないな。前途には何年もある。まだ25歳で、時間はたっぷりある。しかし神様は「いいえ、チャンスはもう来ない」と言われました。その印象があまりにも強かったので、これは神様からきたのだとわかりました。もし神様がそうおっしゃったのであれば、神様は今決心するように強く促しておられるのだ。そこで、わたしは神様の側に立つ決心をしました。神様に心をささげました。そして二度と後戻りをすることはありませんでした。さて、神様が二度とチャンスはないと言われたのはどういう意味だったのでしょうか。

わたしは炭鉱で働いていました。地下で働いていました。わたしはシールススコープと呼ばれる中で働いていました。わたしとわたしの同僚はトンネルに入って行って、高さ3m幅3mの穴を掘っていくのです。そこは花崗岩の中でした。わたしたちは石炭の鉱脈に向かって掘っていました。鉱脈に近づいたときに、今度は鉱脈を長さ12m、高さ約3mで鉱脈上を横切るように掘っていきました。

しかし一つの大きな問題がありました。たいてい固い岩盤の中での採掘は安全なのですが、この鉱脈は石鹸石といわれる石が混ざっていました。とてもやわらかい石なので彫刻に使ったりします。この石鹸石は山のようにではなく、大きな丸い岩のようにして存在しています。そしていつも周りは泥の層で囲まれています。こんなに大きいのです。ですからこの石鹸石は泥で囲まれているのでとても危険なのです。それでトンネルの長さは12mではなく15メートルぐらいになっていきましたし、トンネルの最後のほうは高さが3メートルではなく6メートル、7メートルになっていきました。

わたしたちは頭の上に岩が落ちてこないように金網状の金属シートを長いボルトで貼り付けていきました。ある日わたしたちは鉱脈の端に来ました。ドリルで穴を掘り、ダイナマイトを仕掛けて、そして家に帰りました。次のシフトの人たちが来てそこを見てまわってから、余りにも危険なのでここでは仕事はしない、と帰ってしまいました。ですがわたしたちがリードシフトだったのでわたしたちが危険箇所を建て直す責任がありました。わたしと同僚がトンネルに入っていて岩が積み重なったところにやってきて、そして状況判断をしたのですが、本当に危険な状態でした。もうすべてがぶら下っている状態でした。このとき同僚が「先月彼らは自分達をだましたと思わないかい?彼らは十分なボルトを入れるだけ支払ってくれなかった」と言いました。わたしたちは落ちた岩の塊の間を歩きながら打ち込んだすべてボルト数えていきました。そしてトンネルの奥まで来ました。

わたしたちはイエス様のことを話していました。わたしはイエス様のことで心が燃えていたからです。友達は世の終わりの事とか、イエス様の再臨についてたくさん聞いてきました。わたしたちが話していたとき、わたしたちがちょっと前まで立っていたところに大きな岩が落ちてきました。そこにいなくて本当に幸運でした。それからわたしの友人が言ったのです、「もうここは岩が雨のように降ってくる。すぐに出ないと・・・」。彼がそう言うや否やあちらにもこちらにも岩が落ちて来はじめました。彼が走り始めました。彼が走り始めたのでわたしも走り始めました。走りながら後ろを振り返ると、もうすべてが落ちてきていました。落盤です。強風と埃と全部が一方方向にやってきていました。もうダメだと思いました。しかし逃げることが出来ました。その証拠があります。わたし自身が証拠です。

わたしたちがトンネルに入ると、全部が崩れ落ちてきました。わたしは今日どこにいたでしょうか。もし、神様の守りというものを数ヶ月前にわたしが見放していたら、わたしは今日どこにいたでしょうか。神様にもう少し待ってください、あなたの守りなど必要ではありません、決心するのをもう少し待ってくださいと言っていたら。神様はどうしてそのことを知っていらっしゃったのでしょうか。神様はこの落盤事故があるということをご存知でした。神様はわたしに何が必要かご存知でした。神様は、わたしは神様の御手を離れていたら保護されないことをご存知でした。わたしの命は、小さな一つの決心によって守られました。

わたしたちが意志の力を用いるというのは大切なことです。わたしが決断するというのは大事なことでしょうか。聖書が言っていることをご存知ですか。「わたしを強くしてくださる方によって何事でもすることができる」。それが問題ではないことをご存知ですか。それは一つの宣言のようなものです。「聖書ができると言っているから、できる」と言うことではなく、自分がそうするかどうかということです、意志をもって。タバコなんていつだって止められる、多くの人はタバコを止める、わたしもタバコを止めることができる。しかしそれができるかということではないのです。それをするかということです。わたしはいつも宣教師になりたいと思っていると言う人、では、どうしてあなたは宣教師にならないのか、いつもそう思っていたのだったら、しなければいけないことは決心することです。

もしあなたが罪を犯すとすれば、悪魔がそうさせたのですか。いいえ。悪魔はあなたを誘惑するでしょう。彼は誘惑に長けています。しかしあなたが罪を犯す決心をしなければ、サタンはあなたに罪を犯させることはできません。あなたが正しいことをするなら、神様がそう強制していらっしゃるのですか。そうではありません。神様は正しいことをする力を与えてくださる。しかし神様はあなたが実行する決心をするのを待っていらっしゃる。あなたが心を決めなければ、それは起こりません。

ヨエル書を開いてください。3章。ヨエル書は預言書です。主に終わりの時代を扱っています。終わりの時代に聖霊が注がれるということについて語っています。この章に非常に興味深いことがあります。それは14節なのですが、「群衆また群衆は、さばきの谷におる。主の日がさばきの谷に近いからである」。英語では、「決心の谷」となっています。さばきの谷、決心の谷が近い。

黙示録の13章を見ますと、そこに獣がおります。獣の印があります。666というのがあります。13章全体がそういうことについて書いてあります。その獣は礼拝を要求するわけです。神様は、いけない、獣を礼拝してはいけない、わたしを礼拝しなさいと言われます。終わりの時代には、すべての人が決心をするように招かれます。世界のすべての人が獣を礼拝するか神を礼拝するか。

しかし問題がひとつあります。ある人たちは決心をしないのです。彼らは決心などしたことがありません。いつも他の人に決めさせてきました。彼らは意志の力を働かせなかったために、それを失ってしまったのです。しかし終わりの時にはこれはとても危険なことなのです。教会の中に危機が起こってくるときに、ある人は牧師の所に行きます。「どうしたらいいでしょうか、先生」。そして牧師が、「わたしは右に行くよ」と言えば、右に行きます。牧師が「わたしは左の方に行きますから」と言うと、「じゃあ、わたしも左に行きます」。彼は牧師に決心をさせているわけです。

これは安全ではありません。これは神様のみこころではありません。神様のみこころはわたしたちが自分自身のために聖書を読むこと、そしてあなたを個人的に導くことです。神様がお与えになるその証拠に従って、自分で決心をするように望んでいらっしゃいます。わたしは教会に生まれてからずっと教会に行っているし、お父さんもお母さんも教会に行っているし、それで十分だと言うことはできないのです。わたしの両親は間違っているかもしれません。皆さんのご両親も間違っているかもしれない。わたしたちは個人的に決心をしなければなりません。

聖書の余白のところに、わたしは証の書からの引用文を三つ書いてあります。引用文と言うのは、訳すのがなかなかむずかしいものです。やさしくするように努めます。

「決心をすることなしでは、わたしたち一人ひとりは水のようである。決して成功することはできない」。ある人たちは、失敗するかもしれないからと思って決断しません。わたしたちは過ちを犯したくないですね。正しくありたいのです。ですから、過ちを犯したくないので決心を怠っているわけです。しかし決心を避けるのは、過ちを犯すことになるのをご存知ですか。皆さんは学校に行きましたか。1年生、2年生、3年生と進みましたか。学校で算数を学びましたか。先生は算数を教えるのにどういうものを使いますか。算数の問題を使って教えましたね。家にその問題を持って帰って、夜その問題を考えます。それ以外に算数を習得する方法はないのです。

神様は算数の先生みたいなものだということをご存知ですか。神様は皆さんが成功する人生を送ってほしいと願っていらっしゃるのです。そこで神様はどのようになさるでしょうか。問題を与えるのです。正しく生きるためにそれが一番良い方法なのです。学校で皆さんが算数をするときに、いつも正しくその問題を解くことができたでしょうか。間違いをしたでしょう。もちろん、間違うことがあります。1年生、2年生、3年生で、算数で間違うということはどんな意味を持っているでしょうか。それはどうということはないのです。間違いをすることが、算数を学ぶ早道なのです。皆さんは足し算、引き算、割り算、掛け算をどうするか知っていることでしょう。人生も同じです。神様は、あなたが失敗することを恐れてはおられません。しかし、神様は皆さんが決断をしないということを恐れておられます。もし、皆さんが決断というものをしなければ、必ず失敗をするのです。その問題に取り組むことなしに教訓を学ぶことはできません。

二つ目の引用文ですけれども、「優柔不断はすぐに、間違った方向に決心することになる」。決心しないのは、間違った選択だということです。過ちを犯すのは決心しないよりいいです。

最後の引用文はそのことを言っています。「長い遅延は天使を疲れさせる。間違った決心をする方が、言い訳が立つ」。いつも熱いか冷たいかためらっているよりも、間違った選択をする方がまだいい。決心しなさい。間違うかもしれません。どうということはありません。間違いを通して学びます。決心しなければ、それが大変大きな過ちです。そこから何も学ぶことができないのです。

最後の質問ですけれども、神様はいつわたしたちを強めてくださるでしょうか。決心をする前ですか、後ですか。[参加者:「後」。] 後ですか。本当のところはこうです、イエス様は十字架におかかりになりました。わたしたちのすべての罪の罰をそこで受けてくださったのです。そしてわたしたちに向いて、ご自分の義を与えてくださいました。そのキリストの義の中に、すべてのことを成し遂げる力があるわけです。しかしながら、わたしたちが決断をしなければ、わたしたちはそのキリストの義への信仰を表していないのです。

決心をする前に、力はそこにあります。決心することがその力をつかむことになるのです。イエス様がゲッセマネの園に行かれたときに、世の罪が彼の上にのしかかってまいりました。そしてイエス様の生命を砕きつつありました。彼は3回父なる神様のところに行かれました。「お父様、他に道がないのですか」と言われました。そして父は、「他に道はない」と言われました。イエス様はどうなさいましたか。最後にイエス様は、「わたしの思いのままにではなく、あなたのみこころがなるようにしてください」とおっしゃった。自分がどんな犠牲を払っても世界を救いたいと決心なさった。

イエス様を強めるために天使はいつ来ましたか。彼が決心なさる前でしたか、後でしたか。天使はずっとそこいいたのです。しかし、イエス様が決心をしなければいけなかった。わたしたちも同じであります。わたしたちが神様の側に立つ決心をするときに、その信仰が神様の力をつかむのです。神様に反逆しようとするとき、力はありません。皆さんは決断をなさいますか。そうであってほしいものです。決心をしてください。わざと間違いをするようなことをしてはいけませんけれども、過ちを恐れてはなりません。あなたのできる最善をしてください。しかし恐れてはなりません。

自分のために聖書をとって、自分のために勉強してください。他の人にどれが正しいか、間違っているかを言わせてはいけません。神様と共にあなたが歩んでいただきたい。明日の夜は、この時間にわたしの証をお分かちします。わたしが実際にどういうふうにして神様と共に歩んだかということをお話したい。わたし自身の決心を。とても大切なお話をします。

それではお立ちくださいまして、お祈りをいたしましょう。天のお父様、今日も一日共にいてくださったことを感謝いたします。お父様、学ぶべきことが本当にたくさんあります。わたしたちはイエス様のようになりたいです。神様の側に立ちたいです。すべての人にとって祝福となりたいです。心の底からクリスチャンになりたいです。どうぞ、あなたが約束なさった新しい心をお与えください。わたしたちが決断することができるように、必要な品性と力をお与えください。感謝してイエス様のみ名によってお祈りします。アーメン。

5.窮状は救いの恵みへの戸口
7.罪の告白、喜び迎える父