9.兄息子の宗教経験

8.父からの賜物
10.自己義認

コラム 「放蕩息子のたとえから学ぶ救済の計画と信仰による義」  フランク・フォニエ氏の講演より

elder

また御言葉を深く掘り下げていきましょう。ルカによる福音書15章をお開き下さい。わたしたちはこの放蕩息子のたとえ話の中で弟息子について学びました。彼は神様抜きにしてこの世の中にいました。しかし彼はイエス様に行く道、そして救いに至る道を見出しました。イエス様に行く道を見出す行程で,わたしたちに救いに至るその方法を教えています。その方法を見失わないようにしてください。とても大事なことです。

さて、これから兄息子について焦点を当ててみましょう。彼もまた神様抜きで生きていたのです。しかし彼は教会にいながら神様無しに生きていたのです。兄のほうは非常な危険の中にいました。なぜなら彼は教会にいれば自分は大丈夫だと思っていたからです。実際はそうではないのにそのように思っていたのです。間違ったところに復活してしまうとしたらなんと恐ろしい経験ではないでしょうか?自分はセブンデー・アドベンチストだから天国にいけると、生涯そのように思っていることはなんと恐ろしいことでしょう。そして間違ったところに復活してしまうのです。これが兄息子の問題でした。そしてわたしたちはどちらかというと弟息子というより兄息子のような状態です。

それではお祈りをもって始めましょう。天の神様、わたしたちの危険はいつもわたしたちの目に明らかだとは限りません。なぜならわたしたちは良い人間だからです。わたしたちはクリスチャンです。わたしたちは聖書を信じています。わたしたちはあなたが示されているいくつかの原則に従って生活しています。わたしたちは救いを得ていると思っています。もしそうでなければ、わたしたちはそれを知る必要があります。どうぞわたしたちの学びをお導き下さい。イエス様の御名を通して感謝してお祈りいたします。アーメン

ルカによる福音書15章25節から始めましょう。兄は畑にいました。これはクリスチャンについて話していることを忘れないでいて下さい。聖書は兄が居酒屋にいたとは書いていません。兄が居酒屋にいて酒を飲み、踊り、売春婦と遊びほうけていたとは書いてありません。彼は畑にいたのです。伝道地にいたと考えてください。彼は彼の父親のために働いていました。父親は神様を表しています。彼は教会に雇われていました。それだけではなく、29節を見るとすべての戒めを守っていたとあります。しかし確かに彼のクリスチャン経験は何かが大きく間違っていました。25節、「ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえたので、1人の僕を呼んで、『一体、これは何事なのか』と尋ねた」。

これはわたしを困惑させてしまいます。教会からは喜びの声が聞こえていました。そして彼はこれは何事なのかと思っているのです。彼は喜びの声が教会から溢れてくるのを聞いたことがなかったのです。思うにわたしたちの教会の若者も時には同じように感じているのではないかと思います。彼らが教会に来て、「まあ、なんと退屈なんだろう」と感じるのです。ここはとても悲しい雰囲気の場所だと。外に出ればもっと楽しいことがたくさんある。もし彼らが教会から音楽が流れ来るのを聞くことができれば、もし教会から溢れてくる喜びの声を聞くことができたら、この兄が不思議に思ったように若者達も不思議に思うかもしれません。皆さん、教会は世界で一番幸せな場所であるべきなのです。わたしたちは罪の世界に住んでいるのです。罪は痛みや病気、悩み、怒りなど多くのものを生み出します。この世の中で喜びを生み出す唯一つの場所があります。そこが罪からの救いを見出すところなのです。

兄は家に近づき音楽を耳にして困惑したのです。27節で僕が言います、「あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです」。兄はすぐに喜びに溢れるべきでした。しかし28節を見ると、彼は怒ったとあります。わたしたちはこの兄の見方を理解する必要があります。この兄の立場にわたしたちを置く必要があります。弟は家を去りました。ポケット一杯のお金を持って家を出ました。そして彼はパーティに明け暮れ、酒を飲み、麻薬をやり、セックスにおぼれていたのです。罪に罪を重ねる生活をしていたのです。今、弟は家に帰ってきましたが、乞食のような状態で帰ってきたのです。さらに最も悪いことは父が彼を受け入れたことです。息子には猶予期間も必要ありませんでした。どんな苦行も必要ありませんでした。父親は、6ヶ月間一生懸命働いてお前が改心したことを証明しなさい、と言いませんでした。そうではなく肥えた子牛の褒美を与えたのです。

兄は困惑しました。「自分はずっといい子だった。いつも一生懸命働いた。いつも父親に服従してきた。いつも罪の喜びを拒んできた。教会にいた。そしていつも人に認められるように行動してきた。いつも良いクリスチャンと思われたいと願ってきた。わたしは指輪や着物や履物がほしかった」。でも彼はそれのどれも与えられませんでした。彼の中での大きな疑問は「なぜ?」ということでした。何かおかしい、と思ったのです。分かりますか?この兄は彼の実践している宗教には救いがないことに気づいていませんでした。彼の宗教は自分を弟よりいい人間にすることができないことに気がついていませんでした。それは欺瞞です。わたしたちもこのような形で欺くことが出来るのです。ただ安息日を守っているからと言って、ただ教会に行っているというだけで、ただわたしたちがきちんとした食生活をしているからと言って、ただわたしたちが他の人たちとは違ったことをしているからと言って、そういうことが世の中の人よりもわたしたちを良い人間にするのではありません。彼らは罪人です。わたしたちも罪人です。あなた方も罪人だったということをご存知ですか?そうなんです。わたしたちは罪人なのです。そしてわたしたちはイエス様からの救いが必要なのです。もしわたしが向こうにいる誰かと比べてひどい罪人でなくても、何ら変わりはありません。同じように自分も罪人なのです。わたしはイエス様が必要なのです。彼らもイエス様を必要としています。この兄息子は自分のすべての希望を彼の宗教に託していましたが、父親の助けは必要ないと感じていました。

ローマ人への手紙9章をお開き下さい。30節から始めましょう。使徒パウロはここで異邦人とパリサイ人を比べています。ユダヤ人は兄息子を表し、異邦人は弟息子を表しています。30節、「では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は」、弟息子のことです、「義すなわち、信仰による義を得た」。皆さん異邦人は義を追い求めなかったということに気がつかれましたか?詩篇119編172節に「あなたのすべての戒めは正しいのです」とあります。異邦人は戒めを守ろうとはしていませんでした。ですが、聖句では最終的には戒めを守ったとあります。

31節を見てください。「イスラエル」、兄息子を現していますが、「義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった」とあります。ユダヤ人ほど律法を守ろうとした民族はありません。律法を守るために何倍もの規則を作りました。しかし結果的には律法を守ることは出来ませんでした。なんとも奇妙なことではありませんか?本当のクリスチャンでありたいと思うとき一生懸命正しいことをしようとしませんか?わたしは皆さんが一生懸命努力されるのを失望させたくありません。顔が青ざめるまでやってみてもいいですよ。ユダヤ人は一生懸命努力しましたが、決して律法の標準には達しませんでした。異邦人は律法を守ることに焦点を当てていたわけではないですが、しかし彼らはそこに達しました。

32節に答えが述べられています。「なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである」。彼らは自分達の力によって達成しようとしたのです。しかし信仰は神様の力を捉えるのです。皆さんが神様の力を得るとき、出来ないことは何もありません。神様にあって何事も出来るのです。信じる者には何事でも出来るとあります。異邦人は神様の約束に焦点を置き、ユダヤ人は律法を守ることに焦点を置きました。異邦人は神様の約束にある力を得て、そして律法を守り、ユダヤ人はそれに失敗したのです。

ローマ人への手紙10章1節、「兄弟達よ。わたしの心の願い、彼ら(放蕩息子の話の中では兄息子のことですが)のためにささげる祈りは、彼らが救われることである」。2節、「わたしは、彼らが」、彼らというのは放蕩息子のお兄さんの方を表しているのですが、「彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない」。3節、「なぜなら、彼らは神の義を知らないで」、これは彼らが神様の義の賜物に関心がなかったと言っているわけです。「自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」とあります。4節、「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである」。皆さんお分かりになりますか?破られた律法は二つのことを要求します。破られた律法は、生まれたときから死ぬまで完璧な人生を送らなければならない、と言います。もし完璧な人生を送らなければ永遠に死ななければいけないと。わたしたちはすでに律法を破ってしまっているのです。もしたとえ今日から最後まで完璧な人生を送ったとしても、すでに罪を犯しているのでもう手遅れです。

人が裁判官の前に立っているとします。その人は誰かを殺しました。その人が裁判官に言います、「判事様、聞いてください。わたしはこれから絶対に人を殺したりはしません」。裁判官はなんと言うでしょうか?「将来あなたが誰かを殺すかどうかということが審判されているのではありません。あなたは過去に人を殺したことを審判されているのです」と言うでしょう。わたしたちは神様の元に行って、「もうこれから罪を犯しませんから、天国へ連れて行ってください」とは言えないのです。神様はおっしゃるでしょう、「もうすでに罪を犯しているから手遅れです」と。そして罪の価は死なのです。わたしたちは生まれてから死ぬまで完璧な人生を送ることは出来ません、なぜならすでに罪を犯してしまっているからです。しかしわたしたちは死にたくありません。

わたしたちが陥っているどうにもならない状況が分かりますか?わたしたちは自分で自分を救うことは出来ないのです。もう遅すぎるのです。わたしたちはすでに罪を犯しているのです。すでに死が宣告されているのです。しかし神様はこの世を本当に愛してくださいました。神様は律法が要求する二つを満たすために神の子を送られたのです。イエス様は生まれてから十字架の上で犠牲の死を遂げるまで完璧な生涯を送られました。イエス様が亡くなられた時、贖いとして死んでくださいました。イエス様が復活して天に戻られ、完全な生涯を片手にそして贖いの死をもう片手にして、父なる神の前に立っておられます。神様はこれを見て、「これで十分だ。わたしの義を人類に与えなさい」とおっしゃいました。わたしたちはイエス様の完全な生涯と贖いの死によって救われたのであって、それ以外の何ものでもありません。兄息子、ユダヤ人全体、また今日のあるクリスチャンたち、そしてそのほかすべての宗教は、彼らの宗教は善行や一生懸命努力することで天国にいけると考えています。そうではありません。このような考え方の結果、ユダヤ人は神の選民としての地位を失ってしまったのです。兄息子は衣も指輪も靴も楽しむことはありませんでした。そしてわたしも皆さんも救いの計画を理解することがなければ、そして望みを自分にではなくイエス様に置くことがなければ、わたしたちも滅びるのです。

ルカによる福音書17章をお開き下さい。ここで、言ってみれば少し不可思議に聞こえる例え話を読んでみましょう。なぜならこの例え話はイエス様には似つかわしくないからです。7節から始めましょう。「あなた方のうちだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いする間、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか」。ここでイエス様は御自身にふさわしくないことをおっしゃっています。イエス様御自身が偉大な僕です。イエス様は、わたしたちが僕であってはならないおっしゃっているのではありません。そうではなく、この世ではもしあなたが人に雇われているならば、当然のこととしてあなたは雇い主に仕えなければならないということなのです。9節を注意深く見てください。「僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか」。そのようなことはないですね。10節、「同様にあなた方も、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

皆さんがすべての戒めを守ったとき、あなたは依然としてふつつかな僕なのだと神様はおっしゃっているのです。すべての戒めを守ったからと言って天国に入れるかというとそれでは十分でないのです。戒めを守ることについて皆さんを失望させたくはありません。わたしたちは神様の戒めを守る民です。神様はわたしたちが与えられた光にしたがって生きることを望んでいらっしゃいます。しかしこのことがわたしたちを天国に導くのではありません。これがわたしたちを救うのではありません。わたしたちはイエス様の完全な生涯とその十字架の犠牲によって救われるのです。

ところである人は聖書は救われるために努力すべきだと言っているのではないですか、と言うでしょう。ご存知ですか?聖書はそのようなことは言っていないのです。ルカによる福音書13章を見ましょう。24節です。これはなかなか理解しがたい聖句です。「そこでイエスは人々に向かって言われた、『狭い戸口から入るように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない人が多いのだから』」。入るには難しく聞こえませんか?入るために苦しむような努力をするのです。そのために一生懸命頑張らないといけないように聞こえませんか?しかし聖句をよく見てください。何のために一生懸命努力しなさい、と書いてありますか?「狭い戸口から入るように」と書いてあります。戸口(英語では門gateという言葉を使っています)、門とは何ですか?イエス様は、「わたしは門である。誰でもわたしをとおって入らなければ救われることはできない」とおっしゃいました。皆さんの努力が必要なところなのはここなのです。良くなろう努力することではなく、戒めを守ろうと努力することでもなく、クリスチャン品性を完成させるために努力することでもなく、その努力というのはイエス様を通って入ろうとすることなのです。イエス様が扉、門です。これはわたしたちが自分の努力で救おうとすることに対する防壁です。

マタイによる福音書19章。イエス様は金持ちの青年と話された直後でした。金持ちの青年はそのとおり金持ちでした。彼は若く、イエス様に従いたいと思っていました。また賢く、見た目も良く、すべて持っていました。そして弟子達は、「あぁ、このような青年はとてもいい弟子になる」と考えました。そしてイエス様はこの金持ちの青年に、「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そしてわたしに従ってきなさい」とおっしゃったのです。イエス様はその金持ちの青年を落胆させられました。

弟子達は何かがおかしいと思ったのです。弟子達は彼が金持ちなのは神様の恩恵を受けていると考えていました。イエス様は彼を去らせました。そこでイエス様はこのことを説明しなければいけませんでした。23節、「それからイエスは弟子達に言われた、『よく聞きなさい。富んでいる者が天国に入るのはむずかしいものである』」。24節、「また、あなた方に言うが、富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。

天の御国に入るのは本当に難しそうに聞こえませんか?なぜですか?らくだが針の穴を通るほど難しいのです。らくだが針の穴を通るようにするには長い時間働かなくてはなりません。ところで伝統的にわたしたちが教えてきたことは、針の穴というのはエルサレムの壁にある小さな門のことであるということでした。日が暮れると大きな門は閉まります。もしあなたが遅れてしまうと、その壁には小さな門があってそこからエルサレムの町に入れるのです。しかしそれは小さな門なのです。もしらくだを連れていたら、らくだは荷物をたくさん積んでいるのでその門を通ることはできません。ですかららくだから荷物を下ろし、そしてらくだはひざまずいて、そしてやっとのことでその門を通り抜けるわけです。これは多くの伝道者がいつも使ってきた説明、例話でした。

ですがこれは正しい説明ではありません。この説明は福音を台無しにしてしまいます。どんなに皆さんがらくだのように努力しても新エルサレムに入ることは出来ません。イエス様が針の穴について話しておられたときに、それは縫い針の穴のことをおっしゃっていたのです。縫い針の穴にらくだを通すのはどんなに難しいですか?皆さんは不可能だとおっしゃいますか?そうです、不可能です。それがここでイエス様が理解してほしいと思っておられたことなのです。それは不可能なのです。25節を見てください。「弟子達はこれを聞いて非常に驚いて言った、『では誰が救われることができるのだろう』。イエスは彼らを見つめて言われた」。何と言われましたか?「不可能である」。イエス様はこのことをわたしたちに理解してほしいのです。わたしたちは自分自身を救うことは出来ません。それは不可能なのです。

26節の下の句には、「人にはそれは出来ないが、神には何でも出来ない事はない」。誰が救うことが出来るのですか?神様がお出来になるのです。神様以外に誰が出来るでしょうか?誰も出来ないのです。あなたは自分を救うことが出来ますか?不可能です。どんなに一生懸命頑張ったとしても、どの教会に属していようとも、何を食べようが、どのような服装をしようが、問題ではないのです。自分で決めた標準で自分自身を救うことは出来ないのです。救いはイエス・キリストの犠牲の中にのみあるのです。

マルコによる福音書9章23節、「イエスは彼に言われた、『もし出来れば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』」。神様にあってすべては可能です。信ずる者には、すべてのことが可能なのです。信仰は何にもすることは出来ません。信仰は神様が出来ることをつかむものなのです。ただ神様のみがわたしたちを救うことがおできになるのです。神様はそのことをイエス様の犠牲を通してしてくださいました。

ではなぜイエス様は金持ちの青年は救われるのは難しいとおっしゃったのでしょうか?マルコによる福音書10章24節、「弟子達はこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、『子たちよ、神の国にはいるのは、なんと難しいことであろう』」。富める青年は何が誤っていたのでしょうか?彼が金持ちであったと言うことが間違っていたのではありません。わたしも金持ちだったらいいな、と思います。と言うより、わたしは金持ちです。しかしわたしはそれに依存していません。この若い富める青年はお金に依存していました。皆さん、わたしたちは皆金持ちであることをご存知ですか?皆さんの中のある人達はお金持ちで、しかも見かけもいいです。またある人達は金持ちで、力があります。またある人達は金持ちで教育を受けています。素晴らしい能力を持っていらっしゃる方もあります。わたしたち人間の大きな問題は能力を与えてくださった方に信頼するのでなく、その与えられた能力に頼っていることだと、お分かりになりますか?

放蕩息子の例え話の兄息子は、彼の宗教と宗教的習慣に頼っていたのです。彼は助けは必要としていませんでした。父親を必要ともしていませんでした。彼は本当に良い人間だったのですべてをうまくやっていたのです。彼は自分の徳が彼を救うと信じていたのです。しかし実際彼はそれほど良くなかったのです。そして彼の魂は失われました。これがわたしたちの前にある危険なのです。

終わりのお祈りをしましょう。天のお父様、救いの計画を理解出来るように助けてくださり、ありがとうございます。神様、どうぞカルバリーの十字架以外に頼ることがないようにお助けください。わたしたちはこのことを本当に理解する必要があります。わたしたちはイエス様のようになりたいと願います。わたしたちはわたしたちの内に在るものに頼るのでなく、イエス様に信頼いたします。イエス様の御名によって感謝してお祈りいたします。アーメン

8.父からの賜物
10.自己義認