10.自己義認

9.兄息子の宗教経験
11.講師の証~ただ聖書に教えられる

コラム 「放蕩息子のたとえから学ぶ救済の計画と信仰による義」  フランク・フォニエ氏の講演より

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それではお祈りをして始めたいと思います。天のお父様。あなたは本当にわたしたちに恵み深くあられました。あなたがいかに素晴らしいお方であるかということを完全に理解することはできません。しかしわたしたちは本当に祝福されました。この安息日を心から感謝いたします。御霊を通して今日わたしたちに働いてくださったことに感謝いたします。あなたの聖なる御言葉を更に深く学ぶ機会をくださって感謝いたします。引き続き、理解をすることができるようにお助けください。そしてどうぞこの世界に対してわたしたちが本当にあなたの真の証し人となることができるようにお助けください。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

皆様、ご一緒にルカによる福音書第18章を開いていただきたいと思います。前回に続いて、放蕩息子のお兄さんの方の経験を考えてみたいと思います。彼は自分自身のことでは全てうまくいっていると思っていました。そして、その弟の方はもう全部駄目だと思っていたわけです。弟よりも自分の方が外面的にはうまくいっていたからです。しかし最後に出た結果は、弟が救われて自分はそうではありませんでした。そしてこれは彼の人生において霊的な危機でありました。こういう経験について、もう少し深く考えてみたいと思っています。

ルカによる福音書の第18章。これはまた違ったたとえ話です。9節、「自分を義人だと自認して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった」。人々が頼りにしていたのが何であったかに気をつけてください。自分自身に信頼しているわけです。何に関して自分に信頼するのでしょうか?「自分が義人だと自認していた」と書いてあります。もし皆さんが自分の義に頼るとしたら、どれほどの義を見ることでしょうか?しかしこれは教会の中において珍しい経験ではありません。もしかしたらこれは教会の中における最も大きな問題であるかもしれません。わたしたちの教会だけについて言っているのではありません。自己義認ということが罪の問題なんです。わたしたちは自分が義であると自認する傾向があります。自分が義人だ、正しいと考えている人にはどういう傾向があるでしょうか?その人達はどんなふうでしょうか?自分が正しいと思っている人達に会ったことはありますか?その人達はどんなふうに振る舞うでしょうか?その人達は他人を見下げると書いてあります。とても奇妙なことです。

聖書の中に非常に奇妙な例があります。創世記の16章を見てみましょう。これはアブラムとサライの物語です。サライには子供が生まれると約束されていました。しかし25年間経っても子供は与えられなかったのです。そこでサライは素晴らしい考えを思いつきました。サライの召使の女性を選んで、彼女を通して子供を得ようと思ったのです。さて、ご婦人の皆さん、もし皆さんがサライだったとして、この素晴らしいアイディアを思いついたとします。女召使の中からどんな人を選びますか?最も従順な人を選ぶでしょうか、それとも反抗的な人を選びますか?一番尊敬する者を選びますか、それとも尊敬などできない者を選ぶでしょうか?あなたに忠実な者を選びますか、それとも不忠実な者ですか。これに答えるのは少し難しいかもしれません。なぜなら、わたしはだれも選ばないと言うことでしょうから。結婚しているご婦人は、忠実であろうとなかろうと、自分だったら誰も選びはしないとおっしゃるでしょう。問題は、サライはある人を選んだということです。多分サライは、尊敬できないような人ではなく、一番尊敬できる人を選んだと思います。というのは、母親になるということは子供に大きな影響を及ぼします。そしてこれはアブラムの子供になるわけです。ですから、彼女は幾人かいる召使の中から一番良い人を選んだと思います。わたしは思うのですが、その女性は反抗的ではなかったことでしょう。わたしはそこにいたわけではないのでわかりませんけれども、これが人間の考え方です。

さてそれで、どうなりましたか。16章の4節を見ます。「彼はハガルの所にはいり、ハガルは子をはらんだ。彼女は自分のはらんだのを見て、女主人を見下げるようになった」。イエス様は自分が義人だと思っている人は人を見下げると、さきほどのたとえ話で語られましたね。ハガルは自分が子供をはらむ前は、サライを見下げるようなことはなかったことでしょう。なぜ今、サライを見下げるのでしょうか?なぜだか、おわかりですか?皆さんは人を見下げたことがありますか?誰かを見下げるとすれば、わたしたちはどんな人を見下げますか?ハガルの生涯で初めて、彼女はサライにひとつのことで勝ることになったのです。そこで彼女は鼻高々にサライを見下げています。そういうふう具合に、わたしたちは人々を見下げます。知的な人は知的でない人を見下げます。強い人は弱い人を見下げます。美しい人は醜い人を見下げます。教育ある人は自分よりも教育のない人を見下げます。皆さんはだれかを見下げるようなことがありますか?誰かに対して鼻を高くしたことがあるでしょうか?もしそうであれば、皆さんは自分を義としているということになるわけです。

人がイエス様を受け入れる時に、愛が行動の動機になります。愛は全ての人を受け入れます。愛は全ての人を同じように扱います。イエス様は彼が会った全ての人を尊ばれました。イエス様はこの人は好きだがこの人は嫌いだとはおっしゃいません。イエス様の動機は会う人すべてを例外なく祝福することでした。人々はイエス様を憎みました。しかしイエス様は人々を恨むことはありません。イエス様はいつも彼らの救いのために働かれました。聖書の中にこの例がたくさんあります。前にもお話したことですけれども、姦淫の現場で捕まえられた女性を訴えようとして引きずってきたパリサイ人のことを覚えておられますか。彼は彼らの罪を砂の上に文字を書きました。どうしてイエス様は彼らの罪を大声で言わなかったのでしょうか?イエス様は彼らの罪を高尚なヘブル語でお書きになったのを知っていますか。なぜなら、彼らは教育を受けた人々だったので、イエス様は彼らの罪を表すのに一般の人々にはわからないようにし、恥をかかせないようにされたのです。彼らを傷つけたくはありませんでした。イエス様はその状況を収めなければなりませんでした。イエス様はそのようなやり方が彼らに愛を示すのを望まれました。

そこで聖書の箇所をいくつか見ましょう。わたしは、クリスチャンとはどういう人であるかということを見てみたいと思います。ピリピ人への手紙2章3節。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい」。もしこの世界で、自分よりもすべての人が優れていると思ったら、この世界はどうなるでしょうか。すべて自分以外の他の人を尊敬するようになったら、この世界はどうなるでしょうか。すべての人に対して本当に礼儀正しくなったらどうでしょうか。この世は地上の天国のようでしょう。なぜなら、天国とはそういうものだからです。皆さん、今天国にいると想像してみてください。そして黄金の敷かれた道を歩いています。もう百年くらい天国にいるとします。天国には大勢の人たちがいます。まだモーセに会ったことはありません。そして黄金の道を歩いていると、ついにモーセがやってくるのに気がつきます。「ああ、モーセだ、モーセがやって来る」。 そして、どうやって彼に会えばいいだろうと思います。そして、だんだん彼が近づいて来ると、あなたがモーセを尊敬しているように、彼もあなたを尊敬しているのがわかります。「あなたはモーセです。わたしは何者でもありません」。するとモーセが、「あなたはわかっていないよ。あなたは最後の時代を生き抜いたでしょう。わたしはあなたが信仰を持って最後の時代を生き抜いたようにはとてもできそうにありません」。そしてモーセはあなたを自分よりもすぐれている者として見るのです。しかし、あなたはモーセを自分よりもすぐれていると思います。これが天国です。

しかし、この世界ではこういうわけにはいきません。しかし、神様をほめたたえましょう。教会はそうであるのです。そうですか。あなたの人生においてもそうあるべきです。そうであるとき、あなたには本当に大きな力があるのです。もしあなたがすべての人を自分よりすぐれた者とするときに、それが真実であります。2章の4節。「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」クリスチャンは自分のことよりも、他の人のことをもっと考えるのです。自分の車よりも、隣の車のことをもっと心配します。自分のコンピューター、自分の本を大切にします。自分のものを大切にします。さて、わたしがみなさんのコンピューターを借りるとします、自分のコンピューターと同じように大切にしますか。いいえ、もっと大事にします。自分の物より大切にしますね。これがクリスチャンの生き方です。

けれどもいつもそうだとは限らないわけです。あなたが車を買ったとします。あなたは十年くらいその車に乗ってきたとします。ところが車に問題が起こりました。そこで、その車を売ろうと思います。そしてできるだけいい値で売りたいと思います。買おうとする人に、その車の問題を全部話しますか。もし相手を自分より大切にするなら、全部話すことでしょう。わたしたちの傾向は、自分の利益を考えることです。自分が得になるようにしようとします。そこで何か隠します。それがわたしたちです。そこで人はその車の問題を全部知りません、知っていればそんな値段では買わないでしょう。それはクリスチャンではありません。

コリント人への第一の手紙10章24と33節を見たいと思います。24節、「だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである」。33節、「わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている」。あなたは自分のことよりも、他の人の益の方に関心がありますか。ビジネスにおいてお金をもうけたいと思いますか。自分よりもお金をもうけている人のことを考えたりしますか。クリスチャンは自分のことよりは人の益のことをもっと考えます。聖句が言っているのはそういうことです。わたしは自分の益のことには関心がありません。あなたの救いのことに関心があります。あなたの幸福、あなたの健康に。

ローマ人への手紙12章10節を見ます。「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい」。だれかを尊敬するというのはどういうことなのかご存知ですか。わたしはバナナよりオレンジの方が好きです。その意味はわかりますよね。この聖句の言っていることは、自分よりも他の人の方を進んで尊敬しなさいということです。今している仕事に最初についたとき、わたしはただの職員でした。理事会がありまして、彼らはその機関の責任者を選びました。次に副責任者を選ぶことになりました。二人の名前があがりました。わたしの義理の兄弟が推薦され、またわたしが推薦されました。そこで、「二人は外に出てください。どちらが副責任者に適任か検討しますから」と言われました。しかし彼らは決定できませんでした。最後にある人がわたしたちと話しに出てきました。「わたしたちには決められない。何か意見がありませんか」。「ああ、それは簡単なことですよ。わたしの義理の兄弟はわたしよりずっといいです。彼こそ副責任者にふさわしい人です」。そして彼は会議の場に戻っていって、決定しました。彼らはどんな決定をしたと思いますか。彼らはわたしの義理の兄弟を副責任者にしました。

6ヵ月後、また理事会が開かれました。そしてわたしが責任者に選ばれました。わたしの義理の兄弟が責任者になるべきでしたが、彼は副責任者をしていて、責任者になるのは大変なことだとわかるようになっていました。わたしにはその違いがわかっていなかったので、責任者になってしまいました。「進んで互に尊敬し合いなさい」。名誉を他の人が受けるようにする。そのとき神様がだれがそれを受ければよいかを決めてくださいます。もしわたしたちがクリスチャンであるならば、そうなのです。

わたしが知っている最大の悲劇は、教会の中に政治的なものがたくさん入り込んできていることです。自給伝道の働きの中にも多くの政治的なものがあります。指導者とか何か肩書きや地位が関係するところにはどこにでも多くの政治的なものがあります。残念なことにこれは間違っています。もしわたしたちが皆本当に謙遜になるならば、地位のために運動をしたり、争ったりするのではなく、神様に、そこに必要な人をその地位につけてくださいというべきです。地位を得ようと自己宣伝する人は、決してその地位につくべきではありません。それほど前のことではありませんが、エデンバレーのある職員がわたしを昼食に招きました。彼はわたしをレストランに連れて行きました。わたしたちは楽しい時を過ごしました。最後に彼は言いました、「妻がライフスタイルセンターのディレクターになりたがっています。そして、彼女はわたしに副責任者になってほしいと思っています」。そこでわたしは言いました。「だめです」。だれでも地位を求めて自己宣伝する人は決してその地位にはふさわしくありません。

ローマ人への手紙15章1節、2節、3節。「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ『あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった』と書いてあるとおりであった」。強い人は弱い人を助けるべきです。この世では強い人は弱い人に乗じるわけです。弱い人を奴隷にしてしまいます。しかし、キリスト教ではそうであってはなりません。

多分これは結婚によって最もよく表されるのではないでしょうか。夫と妻はそれぞれの強さを持っています。一般的には夫の方が身体的には強いです。ですから、妻のために重い荷物を持ちます。でも妻の方が知性においては強いかもしれません。そうであれば、その分野で夫を助けます。どちらかが社交性において強いかもしれません。そんな具合に次々と出てきます。夫婦はチームです。そしてお互いに補い合わなければなりません。

マタイによる福音書の11章11節。「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった」。この地上にあってもっとも大きい人物はだれでしたか。イエス様ではなかったでしょうか。イエス様は混乱なさっているのでは?なぜ、イエス様は、「地上にいた者の中でわたしこそ最も偉大な人物だ」と言われなかったのでしょうか。なぜならイエス様は人間でした。そしてイエス様は自分よりも他の人を尊敬なさったのです。そこで、イエス様はだれがもっとも大きい人物だとおっしゃいましたか。バプテスマのヨハネです。では、バプテスマのヨハネをそんなに偉大にしたのは何でしたか。彼は奇跡をひとつも起こしませんでした。聖書の著者にもなりませんでした。若くして亡くなりました。説教者としてはなかなかよい説教者でした。人々はあまり耳を傾けませんでした。なぜイエス様はヨハネがそんなに偉大だとおっしゃったのでしょうか。

この句の残りを読んでみましょう。答はそこにありますが、理解するのはなかなかむずかしいですね。「しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」。もちろんイエス様はバプテスマのヨハネがもっとも大きい人物だったと言われました。バプテスマのヨハネは自分のことを神の国においては最も小さい者とだと考えていました。終わりの時代の諸事件という小さな本がありますが、その296ページ(英文)にこのように書かれています。「天国で最も大いなる者は、自分を最も小さい者とみなす。天国で最も小さい者は愛と感謝が最も大きいのである」。バプテスマのヨハネは自分よりも他の人を高く評価しました。そして、イエス様はヨハネのような人を他に見出すことはできませんでした。ですから、「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった」と言われたのでした。

ルカによる福音書18章のたとえに戻りましょう。わたしたちはキリスト教について話をしています。何節かを通して、キリスト教とは何であるかを読みました。そして、ここにパリサイ人が出てきます。彼らは利己主義的な人です。そして自分を非常に高く買っている人たちです。それから地位のために自己宣伝をする人です。9節。「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった」。そしてここにたとえが出てきます。「「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった」。パリサイ人とはどんな人ですか。牧師です。取税人とはどういう人でしょうか。彼は税金を集める人です。人々は牧師を好みます。取税人を憎みます。

11節。「パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った」。なぜ彼はひとりで祈ったのですか。なぜ彼は神に向かって祈らなかったのでしょうか。なぜなら彼は自分を神としていたからです。彼が自分を何と呼んでいるか気をつけてみてください。「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します」。皆さんが、このように考えるのはわたしの作り事だとお考えになるのであれば、証の書から読みます。1885年2月19日のサインズ・オブ・ザ・タイムスからです。パリサイ人についてこのように言っています。ホワイト夫人が何と言っているかよく聞いてください。「彼は自分崇拝を始めた。『神よ、わたしはほかの人たちのような…人間でもないことを感謝します』」。おもしろいですね。彼がなぜ自分は他の人のようではないと言ったと、彼女は書いていますか。自分は他の人よりすぐれていると思っていました。彼は他よりすぐれていましたか。そうではない。すべての人は、他のだれとも同じです。もし神の霊がわたしたちの人生から取り去られるなら、わたしたちはこの世で最悪の人と同じくらい悪くなります。しかし、神の恵みによってわたしたちはおそらくそうはならずにすんでいるわけです。そこでパリサイ人は自分を非常に高めました。彼は確実に自分はこの取税人よりはるかにまさっていると考えました。

しかしイエス様は違う見方をなさいました。13節。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と」。取税人は自分を罪人とみなしました。そしてイエス様はおっしゃいました。14節。「あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった」。だれが義とされましたか。ここにこの二人を並べて見るならば、一人は取税人、一人は教会に行っている人。二人の評判は違います。外見はパリサイ人の方が取税人よりずっと立派です。しかし取税人は神様の助けの必要を感じました。そして救われて家に帰りました。

では14節の後半を見てみましょう。「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。これは神様が自ら執り行われる聖書の中の一つの掟です。神様はみなさんを個人的に扱っておられます。あなたが自分を高めれば、神様はあなたを低くします。あなたが自分を低くすれば、神様はあなたを高くされます。わたしはこの経験を幾度となくしました。わたしが自分を高めると、神様はわたしを低くします。もうこんなことはできないと思うと、神様が助けてくださいます。わたしたちはこのことを学ばなければなりません。なぜなら神様がわたしたちを扱っておられるからです。わたしたちは高くされたいのであれば、自分を神の前に低くしなければなりません。放蕩息子のたとえの中で、息子たちは二人とも失われていました。一人は世の中にあって、一人は教会の中にいて。兄の方は教会の中にいるので、弟よりはずっとましだと思っていました。だから、自分は天国に行くチャンスがあるのは確実だと思っていました。ところが逆になったのです。弟は上着と指輪と靴をもらいました。兄は何ももらえませんでした。彼は怒りました。これは公平ではないと思いました。

この同じ問題でカインとアベルに起こったことをご存知だと思います。カインは兄で、アベルは弟でした。創世記4章3節。「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした」。カインは農夫でした。彼は梨、オレンジ、りんご、キャベツとか、たくさん育てました。大きなかごに一番よい果物を入れました。そしてそれを磨き、全部つや出しをし、かごをいっぱいにしました。そして祭壇のある丘に登っていきました。そしてそのかごを祭壇の上に置きました。カインの供え物は神様に受け入れられたでしょうか。もしもそれが感謝の供え物であれば、受け入れられたことでしょう。しかし、彼はそのつもりではありませんでした。それを罪のあがないのために供えたのでした。カインはその犠牲の供え物のために一生懸命働きました。

ところで、アベルも犠牲を持ってきました。彼はたくさんの羊を持っていました。その中から一番いいものを持ってきて、主に供えました。しかし、カインの供え物は拒まれ、アベルの供え物が受け入れられました。どうしてでしょうか。アベルは、神は、ご自分の犠牲以外の供え物をお受けにならないことを理解していたからです。そして、アベルの供えた犠牲は、カルバリーでのイエスの犠牲の象徴でした。アベルはそのことを理解していました。カインもそれを理解していたことをご存知ですか。しかし彼は自分のやり方を通したかったのです。

そこで、5節。「しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた」。どうしてカインは怒ったのでしょうか。それは神が彼の供え物を受け入れず、人の供え物でなくご自分の供え物を受け入れたからです。そこで8節で彼は自分の怒りを表しました。「カインは弟アベルに言った、『さあ、野原へ行こう』。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した」。ヨハネ第一の手紙3章14節を見ましょう。「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている」。カインは兄弟を愛しましたか。放蕩息子のたとえの兄は弟を愛しましたか。いいえ。彼らは、死のうちにとどまったわけです。

ルカによる福音書15章に戻って、終わりにしましょう。28節。「兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると」、父は神を表しています。神様が兄をなだめるために出てこられました。神様はカインに対しても同じようになさったことをご存知ですか。カインがアベルを殺す前に、神様はカインのところに来て、「あなたのしていることはよくない」とおっしゃいました。そして、カインがアベルを殺した後、また神様はアベルのところに来て、「あなたの弟の血が叫んでいる」とおっしゃいました。ダビデがバテシバのことで罪を犯したとき、神様は下って来られて、ナタンを通してダビデにお語りになりました。アダムとエバがエデンの園で罪を犯したときも、神様は来て彼らを探しました。「どこにいるのか」。彼らはやぶの中に隠れていました。皆さんをなだめるために、神様が下ってこられるのをご存知ですか。

ルカ15章29節。「兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません』」。「公平でない。不公平だ。わたしは罪を犯したことはない。それなのにあがないの恵みは自分には適用されなかった」。そこで彼の心の中に浮かんできた質問は、「なぜなのだ?」

マタイによる福音書7章21節を見ましょう。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」。兄息子は、「そうだ、わたしは一度も罪を犯したことはない、いつも父の意思を行ってきた」と言います。22節、23節を見てください。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。

こういう人たちの経験に何かおかしいところがあるというのを、どうやって知ることができるでしょうか。彼らは何を指して、救われるとしていたでしょうか。彼らは自分のしたことを指しました。「あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行った」、それが、彼らが指したことです。しかし、神様は「あなたを知らない」とおっしゃるのです。わたしたちは自分のしたことによって救われません。これは兄息子が指したことです。「わたしはいつもお父さんの戒めを守ってきた」。カインも同じでした。「わたしはすばらしい犠牲を持ってきた」。パリサイ人も自分のした事を指しました、「わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」。

しかしアベルも、放蕩息子の弟息子も、取税人も、彼らはみなただほふられた羊を指し示すことができただけで、目を伏せ、神のあわれみを求めました。あなたは救われるために、何を指しますか。天国に行くためにどういうふうにしたらよいと思っておられますか。たった一つの道しかありません。カルバリーの十字架でのイエス様の犠牲を通してだけです。彼はそこでわたしたちのすべての罪をかぶりました。そしてすべての罰を受けてくださいました。彼は完全な生涯を送られました。そしてあがないの死を死んでくださいました。そしてあなたにそれをお与えになります。ですから、あなたが死ぬ必要はありません。そして彼の義をあなたに与えてくださいます。わたしの手には何もありません、ただイエス様の十字架にすがるだけです。

お立ちください。お祈りいたしましょう。天のお父様。救いの計画についてさらによく知ることができましてありがとうございます。今度はそれをわたしたちの生活に適用できるように助けてください。真のクリスチャンになれるようにお助けください。あなたにまったく頼ることができますように。感謝してイエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

9.兄息子の宗教経験
11.講師の証~ただ聖書に教えられる