3.父

2.ふたりの息子
4.家を離れた弟息子

コラム 「放蕩息子のたとえから学ぶ救済の計画と信仰による義」  フランク・フォニエ氏の講演より

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ご一緒にルカによる福音書の第15章を開いてみましょう。主が共にいてくださるように最初にお祈りしたいと思います。天のお父様、わたしたちは今朝あなたの必要を感じております。なぜならわたしたちは罪人であることを知っているからです。わたしたちはどんなにあなたを必要としていることでしょう。さらにこれから学びを続けますときに、どうかあなたの祝福を与えてください。感謝して、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

もし人が自分をひとかどの者と思うのであれば、その人は自分を欺いているのであって、実際は何者でもないということです。ですから、わたしたちは何でもない者、つまり人間にわたしたちがあまりにも大きな信頼を置くことのないように気をつけなければなりません。というのは、何でもないのですから、それはわたしたちを低めるからです。わたしたちが知らなければならないただひとつの現実は神、そして神のみこころです。神のみこころを知ることができれば、そうすればわたしたちは何かになることができます。

1987年に、わたしは妻と子供たちを連れてアフリカに行きました。わたしたちは1年間ザンビアにいて、ルストゥという国に行くように召されました。ルストゥには14年間宣教師として働いていた家族がいました。彼らの三人の子供たちが十代になったので、教育を施すためにアメリカに帰ることにしたのです。わたしたちにも子供が三人いて、彼らも十代でした。しかしわたしたちは子供たちの教育をするためにアフリカに行こうとしていたのです。これは、人々は物事をいかに違った風に考えるかということをよく表していると思います。それでわたしたちはその人々の召しに応えてアフリカに行くことになったのです。

しかしルストゥに着くと、土地の指導者たちがわたしたちに集会に来るように言ってきました。わたしたちが奉仕する谷には3000人の人々がいました。そして指導者たちが言ったことは、「われわれがルーケン医師たちにこの谷に来ることを許したただ一つの理由は、彼らが医者として奉仕すると言ったからです。彼らがクリニックを開いて人々に奉仕すると言ったからです。あなたたちをここに迎える唯一の理由は、そのクリニックを引き続き運営してくださるというからです」ということでした。「それは問題ないですよ」と言いました。わたしの妻は10年の教育を受けており、わたしも10年教育を受けているので、合わせて20年教育を受けているので、大丈夫です。実は、それは何の意味もありませんけれども。しかし、もし皆さんがわたしの妻のことを知っていたなら・・・、神様は、彼女を祝福してくださって、どんなことでもする能力を与えてくださいました。そこでルーケン医師はわたしたちと一緒に3ヶ月間とどまってくれました。そして医療に関することを妻にたくさん教えてくれました。それで彼女は注射のやり方、歯の抜き方、傷口の縫い方を学びました。またどの人にどんな薬を与えればよいかということや、たくさんのことを教わりました。

ある夜、わたしたちが眠っていると、真夜中に外で大きな物音がして目が覚めました。さて、ルストゥという国は空の王国と呼ばれているところでした。この国は山の頂上にあったのです。わたしたちの家は海抜2500メートルほどのところにありました。そしてわたしたちの家の上に山々がそびえ立っていたのです。家に向かってくる道はとても急な坂になっていました。そこでわたしは舗装をして、トラックが出入りすることができるようにしました。夜中に聞こえてきたその音は、牛が引く車の音のようでした。そこでわたしは外に出て行って、その人々に会いました。牛車の上にはすぐにも子供が生まれそうな婦人がいました。そして彼女は妻に、「出産を助けてください」と言いました。妻は、「わたしは赤ん坊を取り上げたことなどありません。ここから10キロのところに病院がありますよ。そこへ行きなさい」と答えました。その女性は、「牛車で行くのよ。そこに行くまでに子供が二人生まれてもいいくらい。わたしはここにいて、もうすぐ生まれるところなの。あなたが助けてくれなくては」と言いました。

そこでわたしは診療所の中にある図書室に行きました。前任の医者がたくさんの医学書をそこに残してありました。その中からわたしは「子供の産み方」という本を見つけました。電気がなかったので、わたしはランタンを持っていって、お湯を沸かしました。お湯が必要かどうかわからなかったのですが、映画で分娩のためにお湯を沸かすのを見ていたので、お湯を沸かしたのです。妻にその本を渡しました。彼女は片方の手にその本を持って見ながら、初めて子供を取り上げました。

わたしたちはアフリカに10年おりました。その約10年の間に、彼女は毎週4、5人の子供たちが生まれるのを助けたのです。そしてこれが非常に興味深いことなのですが、妻はただ一人の子供の命も失うことがありませんでした。すべての子供が生きました。トラックの荷台で分娩させたり、藪の中の小道で分娩させたり、煙ったい小屋の中で産ませたりしました。彼女は考えられる限りのあらゆる状況の中で子供を誕生させたのです。へその緒が首に巻き付いている子供を産ませました。血だらけになっている子供の誕生も助けました。逆子の分娩も助け、呼吸をしていない子供が生まれたときには、人工呼吸で助けたりしました。しかし、彼女は一人の赤ちゃんの命も失いませんでした。なぜだかわかりますか。彼女は、どうやって子供を産まれさせるか知らなかったからです。それが本当の答えです。妊婦がやって来るのを見るたびに、彼女はひざまづき言いました、「主よ、わたしは誰かを傷つけるためにここに来たのではありません。どうか助けてください。わたしは赤ちゃんをどのように産まれさせるか知りません。どうかわたしをどう対処したらよいかわからない状況に置かないでください。わたしにはあなたの助けが必要です。どうか助けてください」。そういうわけで、彼女は一人の子供の命も失いませんでした。

ここには救済の計画においてわたしたちが学ばなければならない教訓があります。彼女はどうやったらいいか知らなかったのですが、一人の命も失いませんでした。そのようにわたしたちは自分を助けることを知りません。自分を癒すことはできません。しかしそれでもわたしたちは失われる必要はないのです。なぜなら、天に神様がいらっしゃるのですから。わたしたちが神の助けを必要だと感じるときに、神様はわたしたちに必要な助けを与えてくださるのです。皆さんは今日助けを必要としておられるでしょうか。何か問題があるでしょうか。その問題を神様は助けることができるでしょうか。神様にはできます。

各時代の希望英文667ページ(和文Ⅲ巻149ページ)にこのように書いてあります。「われわれは、あらゆる困難の中に祈りへの呼びかけを認めるのである」そして英文330ページ(和文Ⅱ巻50ページ)には、「困難のたびに、イエスはそれをとり除くためにご自分の道を備えられる」とあります。 皆さんが困難を感じる前から、神様は知っておられ、その困難が来る前に、神様は備えをしておられます。そしてそれがきた時に、どうすべきかを神様にはわかっておられます。しかし、あなたが祈りの必要を感じるまでは、何もなさいません。それが神様の働かれる方法です。

ルカによる福音書の15章11節にはある人が二人の息子を持っていたとありました。そしてわかったことは二人の息子は両方ともに、悪い子であったということでした。それは全人類を表しています。皆さん、自分は良い人間だと考えないでください。自分は悪い者であることを知る必要があります。そうでなければ、神様はあなたを助けることはできません。

では、12節を学びましょう。「弟が父親に言った。『父よあなたの財産のうち、わたしがいただく分をください』」。弟が父親のところにやってきて、「お父さん、あなたの遺産が欲しい。今欲しい」。これはひどい侮辱です。お父さん、もう死んでよと言っているのと同じことです。もしあなたがこの息子の父親だったら、なんと言うでしょうか。常識的にはどのように言うでしょうか。どうですか。皆さんは静かな方々ですね。お互いにもっと知り合いになりたいですね。

常識的には、子供の肩を抱いてこう言うでしょう、「息子よ、わたしはお前を愛している。だがお前がまだ若すぎる。まだ大人になりきっていない。この遺産を管理する力はない。わたしは一生懸命働いてきた。多くの犠牲を払った。この財産を築くために本当に多くのものを犠牲にしてきた。この財産を築き上げるために、汗も流さず、働きもしなかった者にどうしてこれを渡すことができようか。その上、これはみなお前のものだよ。わたしが死んだらお前のものになるのだ。問題はただひとつ、わたしはまだ生きていることだ」。それが、息子に言う最善の方法ではないでしょうか。それが常識のすることです。

しかし、皆さん、この父親が実際にやったことについて注目していただきたいのです。12節の後半にはどう書いてありますか。「そこで父はその身代を二人に分けてやった」とあります。ここに起こっていることを見逃していただきたくないのです。わたしたちは今、ここで福音について話をしています。救いの計画について考えています。神様は皆さんに常識を失ってほしいと思っているわけではありません。未熟な者に遺産を分けるようにと言いたくて、このたとえを語っているのではありません。このたとえの中で、父親とは神です。そして息子たちは悪い子です。彼らを助けるために父親の方から主導権をとらなければ、この息子たちは失われてしまうのです。福音においては、神様が主導権をとってくださいます。わたしたちを助けるために、与えてくださいます。問題は、神様はいつ与えるかということです。たとえの中では、父親は身代を分けてやったとあります。それは、父親はすべてのものを与えたということです。

ヨハネ3章16節。「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった」。父親が息子に与えたとき、何を与えたのでしょうか。皆さん自身の目でそれを見ていただきたい。ローマ人への手紙8章。32節を見たいと思います。この中の言葉一つ一つを注意深く読んでいただきたい。「ご自身の御子をさえ惜しまずないで、わたしたちすべてのもののために死に渡された方が」。だれに神はご自身の子を与えたのですか。クリスチャンにですか。いいえ、いいえ、違います。すべての人に、です。ここで注目してほしいのですが、「どうして御子のみならず、万物をも賜らないことがあろうか」。皆さんは万物を持っているのだということをご存知ですか。持っているのですよ。聖書はそのように言っています。

昨晩、神様は決して嘘をつくことができない方であると学びました。聖書の約束はすべて、すべての人のためにあります。イエス様が十字架にかかられたのは全世界のためでした。全世界の罪のためにイエス様はその罪の代償をお支払いになったのでした。そしてイエス様は全世界のすべての人に向かって、すべてのものをお与えくださったのです。皆さんはすべてのものを持っているのだということをご存知でしょうか。時には、この人は百万長者だけれども、わたしは貧しいと考えることがあるでしょう。主よ、わたしが百万長者だったらいいのに、と。そういうように考えることがあるでしょう。

わたしはそのように考えていました。しかし、もうそんな風には考えません。わたしは億万長者だからです。わたしのポケットにお金がないというのは事実です。しかしそれは問題ではないのです。聖書は、わたしの神はすべての必要を満たしてくださると書いてあります。ポケットの中にお金があるかないかが問題ではありません。わたしにはお金があります。そのお金は神様のポケットの中にあります。そして神様がそれをすぐに与えてくださることをわたしは知っています。放蕩息子のたとえ話の子供たちのように、道を誤ったのかもしれませんが、わたしがすべてのものを持っているというのは本当なのです。

地上の億万長者が、わたしの着ているような服を着ることはありません。わたしが食べるようなものを億万長者が食べているわけではありません。わたしはレクサスという車に乗ってはおらず、古い車に乗っています。しかし、行きたいところにちゃんと行きます。わたしにはお金がありませんが、全世界に旅行することができます。どうやってそういうことが起こるのでしょうか。なぜなら、わたしはすべてのものを持っているからです。これは本当なのです。わたしたちが神様によってすべてのものを与えられているというのは、なんと感謝すべきことではないでしょうか。

先ほど牧師さんがわたしに贈り物をしてくれました。わたしは、ありがとうと言いました。わたしたちは神様にいつでも感謝するでしょうか。ある人は、そりゃ、くれるんだったらお礼を言うよと言います。神様はわたしたちに与えてくださっています。わたしたちはすべてのものをいただいているのですから、そのことについていつも神様に感謝すべきではないでしょうか。そしてこの世の人たちはそのことを知らないのです。ですから求めることもありませんし、受けることもないのです。わたしたちは知っています。ここに書いてあります。御子によって、神様はわたしたちにすべてのものを与えてくださいました。もしこれを心から信じるならば、わたしたちはいったいどれぐらい持っているでしょうか。どんなに大きなことをわたしたちはすることができるでしょうか。どんなに感謝に満たされることでしょうか。信仰によって表すことのできる最高の表現は、感謝です。わたしたちの祈りは感謝に満たされているべきではないでしょうか。

ヨハネ第一の手紙の第5章11節。「そのあかしとは神が永遠のいのちをわたしたちに賜り、かつそのいのちが御子のうちにあるということである」。すでにわたしたちは見ましたね、御子のうちにいのちがある、すべてのものをくださった、そのすべてのものの中に永遠のいのちが含まれているということです。バランスよく見てほしいのですが、12節。「御子を持つものはいのちを持ち、神の御子を持たないものはいのちを持っていない」。御子によって神様はわたしたちにすべてのものを無償で与えてくださいました。すべてのものは御子の内にあるのです。イエス様を受け入れるときに、わたしたちは神の子になる力を受けたのです。すべてのものを受けたからです。イエス様を受け入れないならば、わたしたちはすべてのものを所有することはできません。なぜならすべてのものは、彼のうちにあるからです。牧師さんがわたしに贈り物をくれたときに、言ってみれば、それは牧師さんから離れたわけです。わたしはその贈り物を持って行きました。しかし神様はそういうふうにはなさいません。賜物は御子の内にあるのです。ですからわたしたちは御子を受け入れるときに、その賜物をいただくことができます。しかし、牧師さんは贈り物をくださったときに、彼自身をくれたわけではありません。家に彼を一緒に持っていきはしません。しかし神様の場合は、神様を受け入れるとき、神様ご自身をわたしたちは所有することができます。

そういうわけで、この世界に住むすべての人たちが、億万長者であるのではないのです。わたしは億万長者です。わたしはイエス様を持っているからです。皆さんも億万長者です。イエス様を持っているからです。しかしもし皆さんがイエス様を持っていなければ、億万長者ではありません。

もうひとつのことがあります。神様は、イエス様という賜物をいつ与えてくださいましたか。人々に、あなたが生まれ変わったときにすべてのものを与えるとおっしゃったでしょうか。そうではありません。賜物なしにはわたしたちは生まれ変わることはできないのです。イエス様なしでは、わたしたちはよい人間になることはできません。そういうわけで、このたとえの中で父親は息子たちにすべてのものを与えたわけです。もし神様がわたしたちに何かを下さらなければ、わたしたちは何ももつことはできない。

ローマ人への手紙5章。6節、8節、10節を見ましょう。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。」。イエス様は善人のために死なれたと書いてありますか。クリスチャンのためにと書いてありますか。いいえ。イエス様は不信心な者のために死んでくださった。わたしが生まれ変わる前に、新生を経験する前にイエス様は十字架の上でわたしのために死んでくださったのです。わたしが善人になるまで待つということはなかったのです。その賜物によってわたしは善い者とされるのです。8節。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。10節「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」。

救いの計画を理解することは、本当に興味深いことであります。神様は、救われるためにまずよい人間になるようにとわたしたちに求めておられるのではないのです。わたしたちが悪い者であるその時に、イエス様は十字架にかかってわたしたちの罪の価を支払ってくださったのです。今ではわたしたちはすべてのものを持っていますから、よい人間になることができます。

創世記の2章を見ましょう。もう少し詳しく救いの計画について考えてみたいと思います。神様はアダムとエバを創造なさって、エデンの園に置かれました。その園にはすべてのものがありました。神様はお考えになりました。どうやったら彼らはわたしを愛しているということを表すことができるだろうか、何の試験もないのに。彼らがわたしを愛していることを表すには、わたしを愛していないことを示す機会をもたせなければならない。そこで神様はたくさんの木の中から一本の木をお選びになりました。神様がその木を必要としたのでありません。そして、その木からとって食べてはいけないとおっしゃいました。それはちょうど、壁に、「ペンキ塗りたて、触るべからず」と看板を掲げるようなものです。そこを通りかかる人たちは皆、その看板を読みます。そして壁を見て、まだ湿っているようなら触りません。そうわけでその園の中に、たったひとつの試みがありました。この木からとって食べてはならない。17節。「しかし善悪を知る木からはとって食べてはならない。それをとって食べると、きっと死ぬであろう」。

質問です。アダムとエバはそれをとって食べましたか。食べましたね。彼らはその木からとって食べたその日、死にましたか。この質問に対して、実は三つの答えがあります。

ある人たちは、はい、彼らはその日死に始めました、と答えます。アダムは930年生きました。その日死んだのではありません。

またある人たちは、その日彼らは霊的に死んだのだと言います。エペソ人への手紙2章1節に、「わたしたちは罪の中に死んでいる」と書いてあります。それも本当です。しかし、彼らはその日には死ななかったというのも、事実です。

その日に死ぬと神様がおっしゃった時、彼らは元あった状態に戻るという意味でした。彼らはどこから来ましたか。どこからでもありません。彼らは存在していなかったのです。その実を食べたら、彼らは何もなかった状態に戻るのだと、神様はおっしゃったのです。けれども問題がありました。神様は食べたその日に死ぬと言われたのに、彼らはその日に死にませんでした。神様はうそをついたのですか。いいえ、神様はうそをつくことはありえません。では何が起こったのでしょうか。

この答を見るために、黙示録13章8節を見ていただきたいのです。ここは答を見出すのには不思議な場所です。黙示録13章は獣とか、獣の刻印とか、666とか色々なものが出てきます。8節を見ますと、「地に住む者で、ほふられた子羊のいのちの書にその名を世の初めから記されていない者はみなこの獣を拝むであろう」とあります。さて、「ほふられた子羊の命の書にその名を世の初めから記されて」とあるのに注目してください。子羊とはだれのことですか。イエスさまのことですね。

イエス様はいつ死なれましたか。イエス様は2000年前に死なれたと、わたしは考えていました。しかしここには、彼は世界の創造の初めから死なれたと書いてあります。2000年前にイエス様が十字架の上で味わった痛みというものは、十字架で始まったわけではないのです。罪が始まった6000年の昔から、イエス様の十字架の痛みは始まったのです。人が罪を犯すや否や、そこに救い主がいらっしゃったのです。

アダムが禁じられた木から実をとって食べたときに、うそをつくことのできない神様はアダムの滅びの宣告をくだしました。しかし、死の怒りがアダムに襲い掛かろうとしたとき、イエス様が死とアダムの間に踏み出されたのです。そして世の救い主となられました。

そこで質問があります。もしその日アダムが死んでいたら、皆さんは今日どこにいたことでしょうか。どこにもいなかったことでしょう。皆さんがここにいる理由は、イエス様が十字架にかかってくださったからであります。皆さんが今生きておられるということ、これはイエス様が十字架で死んでくださったからです。これは世界中のすべての人に言えることです。もし、十字架がなければ命がありませんでした。

しかし、それ以上です。すべての水のしずくに十字架の印が押されているのです。わたしたちが食べるすべてのパンには十字架の印が押されています。日の光のすべてに十字架の印が押されています。イエス様が十字架にかかって死んでくださったから、わたしたちにすべてのものが与えられているのです。この世の人たちはそれを知りません。彼らは進化論で自分たちは生きているのだと思っています。わたしたちは人間という動物にすぎない。持っているもので最善を尽くせばよいのだと。しかし、そうではないのです。わたしたちが生き、そして命を楽しむことができるのはすべて、イエス様が十字架で死んでくださったからです。もしこれを信じていたら、人々の人生にはなんと大きな変化があったことでしょうか。

アダムとエバが罪を犯したとき、すべての祝福を失いました。しかし、アダムとエバは罪を犯しましたが、みなさんは罪を犯しましたか。わたしたちは自分の罪のため、すべての祝福を失ったということを皆さんはご存知でしょうか。今日皆さんは何か食べましたか。空気を吸いましたか。日光を楽しみましたか。ここに赤ちゃんがいて、わたしたちを楽しませてくれます。結婚するということも本当に大きな祝福であります。本当にたくさんの楽しみがわたしたちには与えられています。すべてのものに十字架の印が押されているのです。

使徒行伝17章を開いてください。使徒パウロが、ギリシャのアテネにおりました。そこは当時教育の中心地でした。そこには高邁な哲学者たちが住んでいました。彼はそこに行き、影響力のある人々を悔い改めさせたいと思ったのです。しかし彼はそこであまり成功しませんでした。というのは、そこに住んでいる人たちは高い教育を受けていて、それを誇りとしており、耳を傾けなかったからです。パウロは失望しました。そこで市中をあちこち歩き始めました。彼は神殿に行き着きました。その神殿の中に彼はたくさんの神々がまつられているのを見ました。その中のひとつに「知られない神」という説明が書いていあるものを見たとき、彼はあることを思いつきました。ああ、わたしは知られない神を知っている、ここにたくさんの異教の神々があるけれども、わたしは知られない神を知っている。そこで彼らは人々のところに帰って行き、知られない神について話をしました。

使徒行伝17章25節。彼がこの神についてどのように言っているか気をつけてください。「また何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。彼はすべての人々に命と息と万物とを与え」と彼は言いました。これは真実であります。御子によって、わたしたちにはすべてのものが与えられているのです。皆さんはすべてのものを持っているのです。すべてのものを持っているということを、皆さんは信じなければなりません。何か必要としているということは、すでに持っているからなのです。そして神はすべて満たしてくださるでしょう。御子によって神はわたしたちに必要なすべてのものを与えておられるからです。この概念、この考えが放蕩息子のたとえの中にあることをご存知でしたか。

ルカによる福音書15章に戻りましょう。このたとえ話の最後のところに、弟息子が帰ってきました。父親が宴会の席を整えました。そして兄息子に家に入っておいでと言いました。兄息子は、「わたしは入らない、あなたの言いつけをすべて守ってきたのに、子やぎ一匹も下さらなかった」と言います。それに対して父親がこの兄息子になんと言ったかに気をつけてください。31節。「すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ』」。

これは事実ですか。この兄息子は偽善者でした。自分を義とする、律法主義の、悪い子でした。それなのに、父親は、わたしのもっているすべてのものはお前のものなんだよと言ったのです。この罪人にさえも、神様は、これはあなたのものだと言ってくださるのです。ところが罪人は、父親からの助けを何も必要としていない。救われる人と滅びる人とのただひとつの違いは、救われる人というのは神様からの助けが必要だということを感じているということです。自己を義とする人はその必要を感じません。

なぜ神様は、わたしたちにすべてのものをくださったのでしょうか。ローマ人への手紙2章4節。パウロがここで質問の形で書いています。「それとも神の慈愛があなたがたを悔い改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」。神様は本当に善なるお方です。御子によってすべてのものをわたしたちに与えてくださいました。ですからパウロがここで問いかけているのです。「神の慈愛があなたがたを悔い改めに導くことも知らないのか」。放蕩息子のたとえ話の中の父親が息子にすべてのものを与えたときに、贈り物が何かを語っていたのです。皆さん、どなたかに贈り物をしたことがありますか。あなたは贈り物を、あなたが愛する人にしますか、それとも憎んでいる人にしますか。あなたが愛する人に贈り物をしますね。すべての贈り物は、あなたを愛しているという語りかけです。放蕩息子は、この父親から、わたしはお前を愛しているという語りかけを聞いたことでしょう。こちらに向かっておいで、家に帰っておいで。それが悔い改めです。心を父の家に、父なる神に向けるということです。神様がそれをなさいます。

皆さんの中にはこういう風に思われる人がいるかもしれません。もしわたしがすべてのものを持っているなら、どうしてこんなに貧しく感じるのだろう。なぜ、わたしの銀行口座にこんなに少ししかお金がないのだろう、なぜわたしの脳中には少しのものしかないのだろう、なぜわたしの影響力はこんなに弱いのだろう、どうしてこんなに疲れを感じるのだろう、すべてのことに欠けていると思うのに、何でこの人はこんなことを言うのだろうか。

答を知っていますか。答はコリント人への第二の手紙5章の7節にあります。「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」。見えることの何が悪いのでしょうか。わたしたちはものごとの外側しか見えません。きれいな女性が見えます。そのきれいな女性の内側は見えません。その女性は外側がきれいなほどに、内側がきれいではないかもしれません。世の中のすべてのものは、そのようです。わたしたちはものごとの表面だけが見えます。中を見ることができません。しかし、信仰は永遠の現実を見ます。

わたしがここにどんぐりを持っているとします。そして、そのどんぐりを皆さんにお見せるとします。そして、皆さん何を見ますかと質問します。何と言いますか?[参加者:「どんぐり」。]そうですね。ところで皆さんに信仰があれば、何と言いますか。[参加者:「木」。]そうです、木とおっしゃった方は信仰がありますね。どんぐりの中に木があるでしょう。木は見えませんが、どんぐりを植えれば木になることを知っています。ところで、もっと信仰があったら何を見ますか。[参加者:「神」。] 神様、すばらしい信仰ですが、それはわたしたちが探している答ではありません。何を見ますか。[参加者:「森」。]あなたは森を見ます。森が見えますか。どんぐりを植えます。それは木になって、もっとたくさんのどんぐりの実をつけます。それらをまた植えます。すると森になります。ですから森全体がどんぐりの中にあるのです。皆さん、その中にトイレットペーパーを見ますか。家具を見ますか、家を見ますか。その中に命も、そして先ほど答えられたように神様もあるのです。この種の中にすべてのものがあるのです。

神様のすべての贈り物は約束の中にあるのをご存知ですか。そのすべての約束は聖書の中にあることをご存知ですか。聖書はどこにありますか。あなたの手の中にあります。あなたは聖書を持っています。もし皆さんが聖書を持っておられるなら、すべての約束をいただいているということをご存知ですか。ですからすべての賜物を皆さんはもっておられるのです。イエス様は言葉です。そしてその御子によってわたしたちはすべてのものをいただきました。皆さんはすべてのものを持っているのです。

日本のすべての人たちがこのことを知ってくれたら、どんなにいいだろうかと思います。日本の人たち全部がこのことを知ったら、日本は世界でもっとも力強い国になると思います。世界の人たちから最も愛される国民になると思います。最も寛大な国民になると思います。日本のすべての人たちがそのことを知っているわけではありません。これが皆さんの仕事です。わたしたちはどうにかしてこのことを知らせなければなりません。アメリカにいる人たちすべて、ヨーロッパの人すべて、アフリカの人にも、すべての場所でこのことを告げなくてはなりません。

それではお立ちください。お祈りしましょう。天のお父様、わたしたちはこのことを知ることができて本当に感謝いたします。どうぞ信じるように助けてください。あなたが与えてくださるすべての力をとらえることができますように。そして他の人々の救いのために犠牲を払うことができるように助けてください。イエス様を心から感謝してやみません。アーメン。

2.ふたりの息子
4.家を離れた弟息子