2.ふたりの息子

1.わたしたちのもつべき信仰
3.父

コラム 「放蕩息子のたとえから学ぶ救済の計画と信仰による義」  フランク・フォニエ氏の講演より

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では、ルカによる福音書第15章を開いてみましょう。昨晩約束したように、この期間ほとんどの時間を放蕩息子のたとえ話の学びをします。では11節から始めましょう。これはとても短い句で、ここから大して学ぶことはないと思われるかもしれません。しかしこの短い節の中にとても大切なことが描かれています。

11節。イエスが話しておられます。「ある人に、ふたりの息子があった」。皆さんに考えていただきたいのです。質問しますので、答えていただければとてもうれしく思います。このたとえ話の中の「ある人」とはだれを表しているのでしょうか。イエス様がこのたとえ話をしておられ ます。そしてある人に二人の息子があったと言っています。ある人というのはイエス様のことだといってもいいかもしれませんが、もう少し考えていただきたいのです。父なる神様のことですね。イエス様はご自分の父のことをわたしたちに紹介しようとしておられます。ですからこのたとえの中の父親というのは、わたしたちの天の父なる神様のことです。イエス様は、この父が息子たちにどのように関わっておられるのかを語ろうとしておられます。

では二人の息子というのは誰をあらわしているのでしょう。[参加者:「わたしたち」] わたしたち、その通りです。また色々な答えがあるかと思います。もしここを十分に研究していると、イエス様はこの話を当時のパリサイ人に対して話しているということがわかるでしょう。ユダヤ人を兄息子が表していて、弟息子は異邦人を表しているということがわかります。さらに研究していくと、創世記の中のカインとアベルが、実はこの二人の息子と非常に似通っているということもわかってきます。

そこで、次の質問ですが、二人のうちどちらの息子が良い子で、どちらが悪い子でしょうか。弟の方が良い子ですか。彼は悪い子ではなかったですか?彼は父親からあずかった遺産を放蕩に使い果たしてしまったのですから。さてある人は兄の方が良い子ではないかと考えます。しかしよく見てみると、兄もあまり良い子ではなかったことがわかります。

この句のところに手を置いておきながら、マタイ19章を開いてください。ここに富んだ若い役人が出てきます。16節で、この青年がイエス様に尋ねています。「すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、『先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか』」。これはいい質問ですか。そうですね。すべての人が、この質問をしなければいけません。「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」わたしたちはこの答えを知るまでは、安心できません。これは良い質問なのです。

しかし、気をつけていただきたいのは、イエス様はこの質問にどう答えられたかということです。聖書の中にはとても奇妙なことがいくつもありますが、イエス様が人の質問に直接答えられるのはめったにないのです。彼はたいてい、答える代わりに別の質問をなさるのです。質問する人が目上の立場にいることがあります。そのような人の質問にイエス様は答えることがめったにありませんでした。イエス様はご自分の有利さを失うことがありませんでした。ですから、直接答える代わりに別の質問を返しました。17節、「イエスは言われた、『なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。』」この世に良い人は何人いるでしょうか。一人もいません。誰がそう言ったのですか。イエス様がそう言われました。イエス様はご自分が言っていることがわかっていらっしゃいましたか。どれだけの人が良い人か。だれもいません。

ローマ3章10節から12節では、「義人はいない、ひとりもいない」と言っています。また「善を行う者はいない、ひとりもいない」と言っています。ですから、今日ここにいる皆さんの中で、どれだけの方が良い人でしょうか。ひとりもいません。これを知っておくのは、とてもとても大切なことです。なぜなら、もしあなたが自分は良い人間だと思うなら、あなたは失われるからです。自分を良い人間だと考えるのは、欺瞞です。わたしたちは神の助けが必要です。自分の悪から救っていただく必要があります。もし、わたしたちが自分が悪くないと思うなら、救いの必要を感じません。

ですから、ルカの15章のたとえ話に戻りますが、そこに二人の息子がいました。ひとりは世の中にいて失われている弟息子、兄の方はいわば教会の中にいて失われている者です。兄は自分は良い子だと思っていました。家を出た弟とは違って、家にとどまっていました。父親は神様を表しています。兄息子は神様のところから去ったことがありませんでした。彼は父のために一生懸命働いてきました。ですから教会に雇用されていたと言ってもよいかもしれません。それだけではなく、彼はすべてのいましめを守ってきました。それは29節でわかります。ルカ15章29節。これは弟が家に戻ってきた後のことです。父親が弟息子のために宴会を準備して、畑から帰ってきた兄息子に、一緒にこの祝いに加わってほしいと頼んでいるところです。ところが兄は家に入ろうとしません。彼の言い分を聞いてください。29節です。「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかった」、この言いつけというのがいましめのことです。驚きではありませんか。この息子はすべてのいましめを守ってきたというのです。

みなさんは、自分はいましめを破ったことは一度もないと言えますか。そうではありませんね。わたしたちはみな罪人です。自分は神様のいましめを犯した者であるということを、わたしは知っています。わたしはいましめを破ったのですから、神のゆるしが必要です。しかし、この兄息子は自分はとても良い子なので、一度も言いつけにそむいたことがないと言っているのです。しかし、ここに彼のクリスチャン経験には大きな問題があるということがわかります。28節を見ますと、「兄はおこって」と書いてあります。なぜ彼はおこったのでしょうか。弟が家に帰ってきたのです。もし、わたしの兄弟が教会を去ったら、わたしは心配します。そして彼に聖書を送ります。トラクトを送ります。彼が失われないようにと願います。救われてほしいです。そして彼が帰ってきたら、怒りますか。いいえ、とても喜びます。ところがこの兄息子は、怒ったのです。彼の考えは何か間違っています。

それだけではありません。29節の後半を見ると、兄は父親に向かって口答えをしています、「友達と楽しむために子やぎ一匹も下さったことがありません」。子やぎというのは象徴的に何を表しますか。聖書では子羊、子やぎ、また子牛というのは何を表していますか。ほとんどの場合、聖書の中では、これらはイエス様を表します。これは理解するのに少しむずかしいかもしれません。しかし、この兄の言い分に気をつけてください。彼はすべてのいましめを守ってきました。ところが、彼は子やぎ、あるいは子羊を自分の問題、自分の魂の必要に適用することがありませんでした。ここで彼が言っていることは、イエス様のあがないの恵みが彼の人生の中において働いていないということを表しているわけです。すべてのいましめを守りながら、イエス様のあがないの犠牲を自分に適用していないということがありえるでしょうか。

ある人たちは、救われるために何が必要かということを理解していません。そのようなタイプに宗教は救いをもたらすことがありません。そのような人は父親を必要としません。許しを必要としません。ですから、彼は教会に属していますし、父のために働いているけれども、いまだに失われているのです。この種の宗教は人を救わないということがわかっていないのです。皆さんは、教会に属しているというだけでは十分ではないということをご存知ですか。宗教的であるというだけでは、十分ではないということをご存知でしょうか。世には宗教的な人が大勢います。何千という宗教が世の中にはあります。イエス様の時代、たくさんの人々が真の教会に属していました。しかし、彼らは律法的な宗教をもっていて、自分の善に依存していて、滅びてしまいました。

今日、そういうことがあるでしょうか。そういうことがわたしたちの生涯にもあるでしょうか。そうなのです、そういうことがあり得るのです。ですからわたしたちは、兄息子のようであってはなりません。わたしたちにはイエス様が必要です。イエス様が必要なのです。そして彼の善、慈しみだけがわたしたちを天に連れていくことができます。宗教だけでは十分ではないということを証拠立てる聖句が三つあります。ご一緒にその三つの聖句を見てみたいと思います。

ヤコブ1章を開いてください。26節を見ましょう。「もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである」。 宗教的であるというだけでは十分ではありません。わたしたちの宗教は自分の舌を制するほどのものでなくてはなりません。イエス様は、口から出るものは心から出てくるのだとおっしゃいました。わたしたちは儀式的な宗教をもつということがあります。安息日を守れます。菜食をすることができます。教会がしなくてはいけないと教える多くのことをすることができます。しかし、もし舌を制しないならば、それは心の中に本当は何があるかを表すのです。真の宗教は心を変えます。口から出てくることは救いのことであり、人々を祝福する言葉であり、恵みでなければなりません。このたとえ話の中の兄は、宗教を持っていました。けれども彼の心から出てきたのは怒りでした。わたしたちは、この聖句に従って自分自身がいったいどういう者であるかを判断しなければなりません。皆さんの舌は何を表しているでしょうか。これは大切なことでしょうか。

お話ししたいことがあります。わたしたちは悪い心を持って生まれました。ですから生まれながらに悪い言葉を口にします。そうです、わたしたちには天からの助けが必要です。けれども今日、わたしたちがまだ完全に回心していないなら、まだ時間があります。イエス様は奇跡を非常に早く行うことができます。皆様の心の内に奇跡を一瞬のうちにしてくださることができます。聖書に約束されている新しい心をイエス様に求めるならば、その新しい心でわたしたちは祝福を語ることができるのです。

二つ目の聖句です。テモテへの第二の手紙3章。これは終わりの時代のことを語っています。1節にそれを見ることができます。1節。「しかし、このことは知っておかねばならない。終わりの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者」。 そしてこの句は終わりの時には人々はどのようになっていくかを描写しています

では、5節に注目してください。「信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう」と書いてありますが、 終わりの時代には宗教的でありながら、実際の生活はそういうものではないという人たちがたくさん出てくるというわけです。多くの人にっとて(とって)、宗教は単なる飾りのようなもの、儀式的なものにすぎません。時には、正しい神学をT(?)もっているかもしれません。しかし、神学を知るだけでは十分ではないのです。わたしたちは神様、イエス様と、生きた関係をもたなければなりません。イエス様と手に手をとって歩かなければなりません。

わたしはそのことについて素晴らしい教訓を放蕩息子のたとえ話から学びました。昨晩お話ししましたが、わたしには大きな必要がありました。わたしは毎日毎日2時間半祈っていました。そしてわたしがそうしたとき神様は本当に素晴らしい奇跡をわたしのためにしてくださったのです。神様に頼らなければわたしは失われてしまう、滅びてしまう、わたしは終わりだと感じたからです。わたしは敗北者だと認めたくはありませんでした。そして長い間神様はわたしを祝福してくださっていたのです。神様は、わたしが敗北者であるということを証明なさる必要はなかったのです。神様は、わたしをあるがままにさせるだけでよかったのです。そうすれば、わたしはすぐに失敗するからです。というのは、わたしたちは神様なしでは何もできないからです。ですからこれは本当に学ぶべき素晴らしい教訓です。皆さんにはわたしと同じように卑しめられる経験をしてほしくはありませんけれども、わたしが学ばされたように、神と共に歩くということは学んでいただきたいのです。これはどんなに大切なことでしょう。

三つ目の聖句ですが、黙示録第3章。ところで、黙示録というのは預言の書であることは、皆さんご存知だと思いますが、この中には象徴がいっぱいあります。七という数字が何を象徴しているかご存知ですか。完全を表していますね。ですから黙示録の中には七つのラッパが出てきます、七つの星、七つの燭台、七つのわざわい、七つの霊、七がたくさん出てきます。また七つの教会が出てきます。これはイエス様の時代から世の終わりまでのすべての教会を表しているのです。もし最後の教会までいくなら、それは終わりの時代の教会のことだとわかります。それが15節の所から描かれています。イエス様が言っておられます。「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか、熱いかであってほしい」と。「このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」。

今日のキリスト教はイエス様を吐き気をもようさせるような病気にさせているわけです。今日のキリスト教はイエス様が望んでおられるようなものではありません。イエス様はわたしたちが彼のために熱心であってほしいと思っておられます。イエス様はわたしたちが他の人たちへの愛に満ちていることを望んでおられます。そして人々の救いのために働く者とであってほしいと望んでおられます。ところが教会をご覧になると、熱心さがありません。氷のようではありませんが、クリスチャンは片方の足を教会に置き、片足を世の中に置いています。彼らは、世には楽しいことがたくさんあるので、世を去りたくはありません。失われたくないので教会も去りたくありません。ですから彼らのキリスト教はなまぬるいのです。

この描写、放蕩息子の兄の状態を表しているわけです。彼は教会を出て行ったことはないし、父のために働いてきたし、全てのいましめを守っています。さて、黙示録3章17節を見てください。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」。 これが兄息子の考えていたことです。彼は自分は霊的に富んでいると思っていました。ゆるしなど必要ないと思っていました。なぜなら自分はとても良い人間で、すべてのいましめを守っているのだからと。しかし、彼は自分の悪を見ませんでした。彼は霊的に富んではおらず、裸で、貧しい者でした。

そこで皆さんにお尋ねします。返事はしなくて結構です。皆さんは霊的に富んでいますか、それとも霊的に貧しく、目の見えない者、裸な者ですか。合衆国には南部バプテスト教会と呼ばれる宗派があります。彼らは街角に立って、通りかかる人々に特別な質問をします。とても良い質問です。「あなたは救われていますか」そのようにして彼らは人々に近づくのです。そこで、今朝彼らがあなたに近づいてきて、「あなたは救われていますか」と尋ねたら、あなたはどうお答えになりますか。答えなくてよろしいですよ。もし、「救われています」と答えるなら、みなさんは霊的に富んでいる者なのでしょうか、それとも貧しい者、目の見えない者なのでしょうか。貧しい者なのですね。

この聖句の中には、霊的に貧しい者、みじめな者は救われておらず、霊的に富んでいるものが救われていると書いてあると思う人がいますが、そうではありません。この聖句を注意深く見てみますと、彼らは「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」と書いてあります。そして、救われた人というのは、そのことに気がついているのです。彼らは自分がどんなにみじめな状態であるかを知っているのです。救われる人と失われる人のただ一つの違いは、それは、救われれる人というのは神の助けが必要だということを感じているのです。滅びる人というのは神様の助けが必要だということを感じていないのです。

皆さんがこの日本の町の中に出て行って、人々に「あなたは救われていますか、それとも失われていると思いますか」と尋ねてみるなら、ほとんどの人が何と答えるでしょうか。彼らは自分を見て、わたしはそれほど悪い人間ではない、妻を大事にしているし、子供たちを学校に行かせているし、犯罪を犯していないし、わたしは大丈夫。しかし彼らは欺かれているのです。なぜならわたしたちは皆、罪を犯しており、みんな失われているのですから。自分を見ると、神様に自己推薦できるようなものは何一つもっていません。救われる人と滅びる人の違いは一つだけ、救われる人は神の助けが必要だと感じているということだけです。

各時代の希望英文300ページ(和文:2巻4ページ)に「必要を感じている魂にはどんなものも与えられないものはない」と書いてあります。しかし助けの必要を感じないなら、祈ることもしないし、求めることもしません。神様に助けを求めて頼ることもしません。その結果失われてしまうのです。皆さんはお祈りしますか。この放蕩息子のたとえの中の兄は父親の助けを必要としませんでした。自分はとても良い人間だと思っていましたから。彼は実際は良い人間ではありませんでした。彼は自分の必要を感じなかったのです。今朝皆さんにお願いしたいことがあります。もし皆さんが、自分は良い者であると思っておられるなら、どうかあなたには問題があるのだと知っていただきたい。そして神に自分の必要を示してくださるように祈ってください。これは痛みを伴うことです。なぜなら、わたしたちは自分が悪いということを認めたくはないからです。しかしそれが現実なのです。そして、わたしたちはその現実に取り組まなければなりません。

では、貧しいということについて少し考えてみましょう。聖書はわたしたちは霊的に、「貧しく、目が見えず、みじめであることに気がついていない」と言っていることを思い出してください。

マタイ5章を開いてください。山上の説教がここにあります。イエス様がされた説教の中で最も大切な説教でした。そしてイエス様はとても奇妙な形で始められました。3節をごらんください。「こころの貧しい人たちは幸いである。天国はかれらのものである」。さて、わたしには長い間この句を理解するのがむずかしかったです。この句は、わたしの父親が心底知っている聖句だと思った聖句です。わたしの父は8人の子を持っていました。わたしたちは貧しかったです。そして父はこれと同じ聖句をルカによる福音書から引用していました。ルカはもっと簡単に「貧しい人たちはさいわいである、天国は彼らのものである」と、言っています。ですから、わたしたちは貧しいからきっと救われると思っていました。けれども、わたしは理性ではそれが理解できませんでした。なぜならわたしは父親の生活を見ていたからです。彼は善良な人だし、働き者で、家族を愛し、妻を愛している、けれども多くのことで余りよくないことがありました。アルコール中毒でしたし、煙草を吸って煙突みたいだったし、口から出る言葉はきれいではなかったのです。わたしにはわかりませんでした。

それと、この聖句についてもう一つわからないことがありました。イエス様は天国から下ってこられました。彼はこの世界に来られました。そして彼は神でした。もしわたしがイエス様だったらこの全世界を眺め渡して、霊的に豊かな人を見たら、心の富んでいる人は幸いである、天国は彼らのものであると言ったことでしょう。ところがイエス様はそうはおっしゃらなかったのです。彼は「こころの貧しい人たちはさいわいである」とおっしゃったのです。自分の霊的な貧しさを認めている人たちは幸いだ、天国は彼らのものであると言われました。霊的に富んでいると思う人が救われるのではありません。神様の助けを必要とするほど霊的に貧しいことを認めている人が天国に救われるというのです。

では、盲目ということについて少し考えてみましょう。ヨハネによる福音書9章を開いてください。39節を見ましょう。「そこでイエスは言われた、『わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである』」。 そこで皆さんにお尋ねします。イエス様は目の見える人たちのために来られたのですか、それとも目の見えない人たちのために来られたのでしょうか。[参加者:「目の見えない人のため」。] そうです。彼は目の見えない人のためにおいでになったのです。皆さんは目が見えますか、それとも見えないと思っておられますか。

イエス様が、こうおっしゃった時、パリサイ人が周りにいました。イエス様がこう言われた時、彼らは、「それでは、わたしたちも盲人だとおっしゃるのですか」と言いました。彼らは自分たちが侮辱されたと感じたのです。彼らは今日でいえば牧師でした、彼らは神学院を卒業しており、聖書を知っていました。彼らは霊的に目の見えない人たちの案内役だと自負していました。イエス様は「わたしは目の見えない人たちのために来たのであって、見える人たちのためではない」とおっしゃったのです。彼らは混乱したのですね。40節。「そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、『それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか』」。

さて、イエス様が彼らに何とお答えになったか注意してみてください。41節。「イエスは彼らに言われた、『もしあなた方が盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなた方が「見える」と言い張るところにあなたがたの罪がある』」。もしあなたが見えると思うなら、そうすれば神様からの助けを必要としないわけですね。この世には、自分たちは何でも知っていると思っている人たちがいます。少なくとも、自分たちは知っているという振りをしています。自分が知っていることを誇りに思い、自分たちは教師だと思っており、指導者であり、みんな自分についてきてほしいと思っているわけです。ああ、しかし彼らは問題に巻き込まれます。彼らは自分はわかっていると思うので、イエス様が必要だと感じないからです。イエス様からの助けを必要としていないことを意味しているからです。要点は、わたしたちは皆目の見えない者であって、案内をしてくれる人が必要であるということです。天の導きが必要であるということです。

話をしましょう。わたしは新しい指導者にされたことをお話ししました。わたしを指導者にした人には、わたしが指導者であるようにする責任があります。そこでその人はわたしを指導者として育てようとしました。彼は何マイルも離れた所に住んでいました。わたしはカナダにおり、彼は合衆国にいました。それで彼にできることと言えば、わたしに電話をすることだけでした。そして彼は、ある自給伝道機関で集会があるからそこに行ってほしいと言ってきました。「わたしはもう、君がそこで話をするということにみんなに知らせてある、理事会で話し合って、君には教育の事を受け持ってもらいたい」と言いました。そしてある日彼から電話が来ました。「コロラドのエデンバレーというところで大会がある。そこに行ってほしい」というのです。ああ、ずいぶん遠いなあ、と思いました。もう2千キロ、3千キロという距離です。わたしは自分一人で車を運転するのには慣れていませんでした。そんな遠いところ。そこで、「あまり遠過ぎるので行きたくないのですが」と言いました。彼は「君は行かなきゃいけない、行くべきだ」と言いました。それでわたしは行きました。

最初の日は14時間運転しました。その日わたしはアメリカの南ミシガンまで行きました。そこには、オークヘーブンという機関があるのですが、そこに泊まりました。彼らは眠る場所を提供してくれました。朝、起きたら歌声が聞こえたので、起き上がって一階のチャペルに行きました。そこで一緒に礼拝をしました。

その日若い黒人が話をしていました。わたしはただ一つのことを覚えています。彼は、「セブンスデー・アドベンチスト教会は自分を義としている」と言いました。わたしは、なんだこれはと思いました。わたしはセブンスデー・アドベンチストになったばかりでした。わたしの生活は変わり、わたしは改革を受け入れていました。それが今、彼は、「セブンスデー・アドベンチストは自分を義としている」と言っているのです。わたしには理解できませんでした。

しかし、皆さんに言うことがあります。セブンスデー・アドベンチスト教会は自分を義としています。自分を義とする精神はこの世界のあらゆるところで問題を起こしています。これは罪の問題です。わたしたちは神様に信頼すべきなのに、その代わりに自分を信用しているのです。

しかし、その時わたしには理解できませんでした。椅子に座っていましたが、神にお祈りをしました。「父よ、わたしは自分を義としているのでしょうか」。神様はその祈りに答えてくだいました。神様はわたしの心に語りかけてくださいました。「そうだ、お前は自分を義としている」。わたしはどういう意味だろうと思いました。神は続けてわたしに語られたのです。わたしに問いかけました。「あなたの最大の不平は何か」。 「ああ、わたしの最大の不満は、お祈りするための時間が充分ないことです。デボーションの時間が足りないし、忙しすぎて聖書を読む時間がありません」。すると神様がおっしゃいました。「それが、あなたが自分を義としている証拠なのだ」。

わたしには理解できませんでした。彼は語り続けてくださいました。「もし、一瞬でもわたしがあなたの肩に負わせている責任を感じているなら、もし、あなたが一人の女性の夫としての責任を一瞬でも感じているなら、3人の子供の父親として責任を一瞬でも感じているなら、この機関の指導者であることの責任をあなたが一瞬でも感じているなら、教会の長老であることの責任を一瞬でも感じているなら、そして地域社会に対して証をしなければならないという責任を感じているなら、もし、あなたがそれらの責任を一瞬でも感じているなら、あなたには祈りのほかに何もできないはずだ。しかし、あなたは、自分の責任を果たすために、自分の力ですべてやろうとしているから、祈らないのだ」。

皆さんは聖書を読む時間が足りないと不満を言いますか。デボーションの時間も十分にないとつぶやきますか。忙しくて神様のために時間がないと言っていますか。では、それはわたしと同じように自分を義としているのです。皆さん、わたしたちは自分を救うことはできません。神様の助けなしでは、わたしたちは決して何一つ成功することはできません。わたしたちは毎日、毎瞬神様を必要としているのです。聖書は、わたしたちは何ものでもないと言っています。何もできないのです。

神様は聖書の中で、四つの「できない」ことを言っておられます。皆さんにそれを分かちたいと思います。ガラテヤ人への手紙6章3節です。「もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである」。この聖句によれば、この人はどういう人ですか。何ものでもありません。何ものでもない者にどれほど確信をおけるでしょうか。何ものでもないのですから、信頼しません。ところが、わたしたちは自分に信頼するのです。それは欺きです。事実、この聖句はそういっているからです。何ものでない自分に信頼をおくのですから、それは自分を欺いていることです。これは、すべての自己欺瞞の根幹です。自分に信頼するということ。それが問題なのです。わたしたちは自分に自信があるのです。もし、わたしたちが自分に信頼できないのであれば、わたしたちは自分以外のお方に信頼するほかなく、そうすれば欺かれることはありません。しかしわたしたちは、自分自身を信頼し、自分を欺かれるところに置くのです。

ヨハネ15章5節。イエス様が語っておられます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。わたしたちは何ものでもありません。イエス様なしには何もできません。

ヨハネ3章27節。ここではバプテスマのヨハネが語っています。弟子たちの中にイエス様の働きに対してねたみを抱いている人たちがいました。イエス様がバプテスマを授けているというので。それに対して彼が答えています。「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」。ですから、わたしたちは何ものでもありません。神様の助けなしでは何もできません。神様が与えてくださらなければ、わたしたちは何も持つことができないのです。

さて、コリント人への第一の手紙の8章の2節。「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」。皆さんは、知らなければならないほどの事すら知っていないのだとうことがわかりますか。一番いいものは何であるかわたしに教えていただきたいのです。みなさんはすべてのことを知っていますか。わたしたちの周りには無限のものがあるわけです。わたしたちは何も知らないのです。神様がわたしたちに表してくださらない限り、わたしたちは何も知ることはできません。わたしたちはまったく神様に依存するしかない者なのです。神様からの助けを必要だと感じている人はさいわいです。もし知恵が欠けているならば、神様に祈りなさいと聖書は言っています。神様は惜しみなく与えてくださると約束してくださっています。

もし神様があら捜しをする方であれば、わたしの中にたくさんの失敗を見つけることができます。そして、わたしたちに何も与えてくださらないでしょう。しかし、神様はそういう間違いを見つけようとしておられるのではないのです。わたしたちの罪はすべて、キリストの十字架につけられました。イエス様は、わたしたちのすべての罪、すべての失敗のために、その刑罰を受けてくださいました。そして、わたしたちに向き直って、ご自分の正しさ、ご自分の義を与えてくださるのえです。彼は、ご自分を与えてくださいます。その知恵、その力、その愛を。ですから、わたしたちは何ものでもなく、彼がすべてなのです。わたしたちには何もありませんが、イエス様は喜んでわたしたちにすべてを与えてくださいます。イエス様なしにはわたしたちが何もできませんが、彼にあっては何事でもすることができます。

ですから、わたしたちが神様に求めれば、知恵を与えてくださるのです。神様は何と良いお方ではないでしょうか。たとえの中の兄息子はこのことを理解しませんでした。彼は教会員であるから、もうそれで十分だと思っていました。彼は自分の善い行いが神様の恵みを稼ぎ取ることができると思っていました。煙草も酒も飲まず、ギャンブルもしないし、盗みもしないし、だから自分は救われると思っていました。しかし、彼は善い行いによっては救われないのだということを理解していませんでした。皆さんはいかがでしょう。わたしたちのすべての宗教的活動というのは、キリストの血によって清められなければなりません。わたしたちにはイエス様が必要です。

どうぞお立ち下さい。お祈りいたしましょう。愛する天のお父様、わたしたちは全く無力で望みのない者であることを感じます。キリストを通しての救いを心から感謝いたします。お父様、どうかわたしたちが自分たちの必要がわかるように助けてください。あなたは神であり、わたしたちは罪人です。わたしたちは堕落しきった世界に住んでおります。わたしたちは良い者になりたいと思っていますが、ただ一つの善はあなたの中にあります。どうか新しい心と霊を与えてください。感謝して、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

1.わたしたちのもつべき信仰
3.父